【コラム】昭和の日に想う。
- 2015/04/29
- 08:57
【コラム】昭和の日に想う。
4月29日は国民の休日「昭和の日」。
先帝陛下の天皇誕生日なので本当なら「昭和節」とするべき日だと思うが、大東亜戦争の敗戦との未曾有の国難にあって先帝陛下の為された事を虚心坦懐に見ると我が国国柄の通りに行動あそばされたことがわかる。
また、国民である我らが祖父母・父母が我が国国柄を以て支え、世界に冠たる日本が今あることを見れば、その軌跡にあらためて頭が下がるおもいである。
玉音放送として知られる終戦の詔勅は「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び」の部分だけがよく知られていると思うが、終戦の詔勅を読めば、古事記の古からの我が国国柄が色濃く表れている。
そもそも東南アジア諸国を侵略し植民地化していたのは欧米列強であり、その東亜解放の戦争なのであるのだが、原子爆弾を非戦闘員である女・子供が沢山住む広島長崎の市街地に投下して一瞬のうちに10万人単位を殺されたことを受け、我が国・我が民族の滅亡を避ける為には宣言受諾するとした旨と、それに続けて東亜解放が完成しなかったことへのお詫び、戦死戦傷した国民への労り、敗戦苦難がこれから来るが、耐え、忍び、平和な世界を開拓しようとの呼び掛けをなされている。その部分を紹介する。
抜粋2:「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び」の前段部分
<Fact>朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
<勝手に現代語訳>
朕は日本と共に東亜解放に協力してくれた東亜諸国に対し遺憾の意を表せざるを得ない。前線で戦死した国民、公務にて殉職した国民、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷や災禍を被り家財職業を失った人々の再起については、朕が深く心を痛めているところである。
今後日本が受ける苦難はきっと並大抵のことではなかろうが、国民の本心も私はよくわかっている。しかしながら朕は時の巡りに合せ堪えがたくまた忍びがたきを乗り越え、未来永劫にわたる平和を切り開こうと望んでいる。
植民地支配に苦しむ東南アジア諸国に詫び、国民を慈しみ、これからの苦難を耐えてくれとの内容である。もっぱら他者をいたわる姿勢である。
敗戦になる状態で、東南アジア諸国に解放が不充分でゴメンね、なんて詫びることをするのは日本人以外にはいない。
帝国憲法の建て付けは総て天皇大権に集約されているのだが、個別条文の記載内容の実態は現行と同じ議会制民主主義であり、議会で多数を占めた党が総理大臣を出し政権を作り、その決定を天皇は必ず承認するのが慣例であり、実際的政治責任は内閣及び総理大臣にある制度であった。それなのに、帝国憲法の建て付け上、大権は天皇にあるとの形式に則り敗戦後、先帝陛下は総ての責任を引き受ける行動をおとりになっている。
玉音放送の後、米軍進駐後のマッカーサーとの会談(1945年9月)の際の陛下は全責任は私にあると明言なされ、総て天皇大権の名のもとで行われたのだからとご自身が責任者だと表明されている。
これこそが真の統治者としての言動である。普通は出来ないことだが、それを実行なされた。
更に、その後、1945年12月には、終戦直後の日本は食糧事情の悪化に直面しており、天皇は「多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分にはたえがたい」と述べられ、皇室の御物の目録を以て「これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい」と伝えられた。古事記の仁徳天皇民のカマドとまったく同じ行為だ。
更に、先帝陛下は翌年1946年から1954年の足掛け9年間の全国御巡幸をなされている。
終戦の詔勅にあった様に、国民への労りを実行なされている。
戦争に負けた国の最高位にあった人が、敗戦後に「国民を励ます」との我が国日本文明以外の歴史では空前絶後、あり得ない真の君民一致の姿が出現したのである。
我が国以外で、ほぼ無防備に国民の群集の中に入り無事だった敗戦後君主など存在しない。
我々日本人は太古より天皇と民がともに国を創り上げてきた君民一致の日本文明を歴史に持つ民族であり、我が国では普通に出現した他国ではあり得ない奇跡が戦後のスタート期にあったことは大きな意味をなしている。
陛下は国民を信じ、国民は陛下を信じ、戦後も君臣一致の日本文明でやっていくのだとの戦後「新約」の姿が御巡幸なのだ。
焼け野原状態から今や世界に冠たる国家へと再度立ちあがっているのは、この御巡幸で先帝陛下は国民に対する責任を果たし、国民は先帝陛下とともに新日本建設をすると決心した、その現れなのだ。
1941年の開戦の御前会議にて、スメラミコトが言挙げなされた明治大帝御製「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」の大御心。しかし開戦に至り、敗戦となった。それでも責任は統治者たる天皇にありと毅然とGHQに対し、慈悲で国民に対した先帝陛下は間違いなく我が国を守り、我が国国民にとって奇跡を起こした天皇である。
そして、今の我々の日本は、戦後も新たにまた君臣一致の国柄でやっていくとした先帝陛下と我らが祖父母、父母が共に成し遂げた奇跡なのである。
我らが二千数百年国史の中でも稀有な奇跡の天皇とともに敗戦を乗り越えた我等日本人は、そのことを誇りに思い、敗戦時に貼られたレッテルを剥がす時が来たことを知る必要があると考えている。
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4月29日は国民の休日「昭和の日」。
先帝陛下の天皇誕生日なので本当なら「昭和節」とするべき日だと思うが、大東亜戦争の敗戦との未曾有の国難にあって先帝陛下の為された事を虚心坦懐に見ると我が国国柄の通りに行動あそばされたことがわかる。
また、国民である我らが祖父母・父母が我が国国柄を以て支え、世界に冠たる日本が今あることを見れば、その軌跡にあらためて頭が下がるおもいである。
玉音放送として知られる終戦の詔勅は「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び」の部分だけがよく知られていると思うが、終戦の詔勅を読めば、古事記の古からの我が国国柄が色濃く表れている。
そもそも東南アジア諸国を侵略し植民地化していたのは欧米列強であり、その東亜解放の戦争なのであるのだが、原子爆弾を非戦闘員である女・子供が沢山住む広島長崎の市街地に投下して一瞬のうちに10万人単位を殺されたことを受け、我が国・我が民族の滅亡を避ける為には宣言受諾するとした旨と、それに続けて東亜解放が完成しなかったことへのお詫び、戦死戦傷した国民への労り、敗戦苦難がこれから来るが、耐え、忍び、平和な世界を開拓しようとの呼び掛けをなされている。その部分を紹介する。
抜粋2:「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び」の前段部分
<Fact>朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
<勝手に現代語訳>
朕は日本と共に東亜解放に協力してくれた東亜諸国に対し遺憾の意を表せざるを得ない。前線で戦死した国民、公務にて殉職した国民、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷や災禍を被り家財職業を失った人々の再起については、朕が深く心を痛めているところである。
今後日本が受ける苦難はきっと並大抵のことではなかろうが、国民の本心も私はよくわかっている。しかしながら朕は時の巡りに合せ堪えがたくまた忍びがたきを乗り越え、未来永劫にわたる平和を切り開こうと望んでいる。
植民地支配に苦しむ東南アジア諸国に詫び、国民を慈しみ、これからの苦難を耐えてくれとの内容である。もっぱら他者をいたわる姿勢である。
敗戦になる状態で、東南アジア諸国に解放が不充分でゴメンね、なんて詫びることをするのは日本人以外にはいない。
帝国憲法の建て付けは総て天皇大権に集約されているのだが、個別条文の記載内容の実態は現行と同じ議会制民主主義であり、議会で多数を占めた党が総理大臣を出し政権を作り、その決定を天皇は必ず承認するのが慣例であり、実際的政治責任は内閣及び総理大臣にある制度であった。それなのに、帝国憲法の建て付け上、大権は天皇にあるとの形式に則り敗戦後、先帝陛下は総ての責任を引き受ける行動をおとりになっている。
玉音放送の後、米軍進駐後のマッカーサーとの会談(1945年9月)の際の陛下は全責任は私にあると明言なされ、総て天皇大権の名のもとで行われたのだからとご自身が責任者だと表明されている。
これこそが真の統治者としての言動である。普通は出来ないことだが、それを実行なされた。
更に、その後、1945年12月には、終戦直後の日本は食糧事情の悪化に直面しており、天皇は「多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分にはたえがたい」と述べられ、皇室の御物の目録を以て「これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい」と伝えられた。古事記の仁徳天皇民のカマドとまったく同じ行為だ。
更に、先帝陛下は翌年1946年から1954年の足掛け9年間の全国御巡幸をなされている。
終戦の詔勅にあった様に、国民への労りを実行なされている。
戦争に負けた国の最高位にあった人が、敗戦後に「国民を励ます」との我が国日本文明以外の歴史では空前絶後、あり得ない真の君民一致の姿が出現したのである。
我が国以外で、ほぼ無防備に国民の群集の中に入り無事だった敗戦後君主など存在しない。
我々日本人は太古より天皇と民がともに国を創り上げてきた君民一致の日本文明を歴史に持つ民族であり、我が国では普通に出現した他国ではあり得ない奇跡が戦後のスタート期にあったことは大きな意味をなしている。
陛下は国民を信じ、国民は陛下を信じ、戦後も君臣一致の日本文明でやっていくのだとの戦後「新約」の姿が御巡幸なのだ。
焼け野原状態から今や世界に冠たる国家へと再度立ちあがっているのは、この御巡幸で先帝陛下は国民に対する責任を果たし、国民は先帝陛下とともに新日本建設をすると決心した、その現れなのだ。
1941年の開戦の御前会議にて、スメラミコトが言挙げなされた明治大帝御製「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」の大御心。しかし開戦に至り、敗戦となった。それでも責任は統治者たる天皇にありと毅然とGHQに対し、慈悲で国民に対した先帝陛下は間違いなく我が国を守り、我が国国民にとって奇跡を起こした天皇である。
そして、今の我々の日本は、戦後も新たにまた君臣一致の国柄でやっていくとした先帝陛下と我らが祖父母、父母が共に成し遂げた奇跡なのである。
我らが二千数百年国史の中でも稀有な奇跡の天皇とともに敗戦を乗り越えた我等日本人は、そのことを誇りに思い、敗戦時に貼られたレッテルを剥がす時が来たことを知る必要があると考えている。



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