スリーパーセル・潜伏工作員

副題:その昔、今は常識となった「朝鮮戦争は北朝鮮の南侵で始まった」と明示することが憚られる時代があった。
今年の2月中旬ごろ、国際政治学者・三浦瑠麗がスリーパーセル(潜伏工作員)の存在に言及した。それに対して、所謂「サヨク」陣営からは、一斉に「デタラメだ」とか「そんなのいない」とかの火消し言説が溢れたことをご記憶の方も多いと思う。
普通のオッサンである一般国民の1人に、「2018年現在のスリーパーセルの存在有無」を確認する手立てはないので、三浦瑠麗の主張が正しいのか、或いは一斉に出た「否定発言」が正しいのかを証拠を以て判断することは不可能事である。
一方、「北朝鮮のスリーパーセル(潜伏工作員)の存在有無」に関しては「存在した」、「少なくとも1970年代~1980年代には存在した」と確信している。
その様に確信する根拠の1つが、書籍【北朝鮮よ、銃殺した兄を返せ!】である。(*1)
この書籍の著者は在日朝鮮人の朴春仙である。
この書籍は、題名通りの内容なのだが、注目すべきは「第4章・大物スパイとの同居」である。この著者は、拉致の主犯である、あの辛光洙(シン・ガンス)の日本での妻であった人物である。
辛光洙(シン・ガンス)は1985年に韓国潜伏中に韓国当局に逮捕され、死刑判決を受けたが、後に、従北大統領・金大中による減刑・恩赦で2000年に北朝鮮に帰国している。
朴春仙が辛光洙について証言し始めたのは1994年である。
辛光洙に対しては、2006年に我が国警視庁公安部は拉致容疑で国際指名手配をしている。
その容疑の対象は、調理師・原敕晁(はら・ただあき)さんの拉致だけではなく、横田めぐみさん、地村保志さんと妻の富貴恵さんらを北朝鮮に連れ去った拉致事件の容疑である。
辛光洙は、1985年のソウルでの逮捕後の取り調べで、日本人を拉致したこと、拉致した日本人に「背乗り」(成りすまし)をして工作活動を行ってきたことを自供しているのだが、日本に密入国したのは1973年のことだと言われている。
その当時に、日本での「現地妻」だったのが、書籍の著者である在日朝鮮人・朴春仙である。
在日朝鮮人の朴春仙が、「祖国・北朝鮮」の為の工作活動をしていた辛光洙の潜伏時の日常を証言・記述するに至ったのは、多分、北朝鮮が「祖国・北朝鮮」というよりも、「兄を殺した北朝鮮」であるからだろうと推察される。
証言は、時期的には辛光洙の逮捕後、約10年が経った時期である。
拉致問題が世間に認知されたのは、多分、ソウル五輪阻止の為に、その前年の1987年に起こった大韓航空機爆破事件の際の、金賢姫の日本語教育係「李恩恵」(田口八重子さん)の存在が報道されてからではないかと思う。
この事件の報道をリアルタイムで見ていたのだが、その記憶をたどれば、先ず、大韓航空機爆破事件の重要容疑者名として「日本人」の「蜂谷真一・蜂谷真由美」が報道されたのだが、後に、それらは北朝鮮工作員が「日本人親子」に成りすましていたものだと報道された。
アブダビかバーレーンか、中東にいた両北朝鮮工作員は、逮捕の際に男性の方は青酸カリで服毒自殺をしたが、女性の方は、その決心がつかずに拘束されたと報道されていた。
北朝鮮工作員の金賢姫が「蜂谷真由美」との偽名を使い大韓航空機の爆弾を仕掛け、115名を殺害した事件であることは、現在、確定済であるが、当時、「蜂谷真由美」逮捕後に、それが北朝鮮工作員金賢姫だとの報道があった直後から、「北朝鮮ではない」、「韓国による自作自演」、「北朝鮮にいる金賢姫とは別人だ」、「子供の頃の金賢姫とは耳の形が違う」等のカウンターインフォメーションが盛んに新聞・TV・週刊誌等に登場していたことも記憶している。
そうなのである。昔から、南北朝鮮に関する「報道」は、デマが紛れ込むのである。
「蜂谷真由美」との日本人女性に成りすましていた北朝鮮工作員・金賢姫は、拙いながらも日本語を話し、日本人女性風の化粧をしていた。その手法等を教えていたのが、「李恩恵」(田口八重子さん)であり、田口八重子さんは、日本から拉致された人物だと言う事が報道された。記憶が正しければ、第一報では「田渕」とされていたと思う。
1987年と言えば、既に辛光洙は逮捕されており、日本人拉致(原敕晁さん)の証言をしているはずなのだが、その記憶は薄い。拉致事件は、李恩恵以前から語られていたのだが、拉致問題が世間に認知されたのは、これ以降だったと言って良いと思う。
何れにしろ、それ以前は、北朝鮮工作員とか日本人拉致とかの話は、トンデモ話・陰謀論扱いであり、その真相究明を求める声は「UFO研究をしろ」と同等の扱いをされていた時代であった。
一方、李恩恵(田口八重子)の存在が大きく報道され、潜伏工作員による日本人拉致事件として、福井県(地村保志・濱本富貴惠)、新潟県(蓮池薫・奥土祐木子)、鹿児島県(市川修一・増元るみ子)での男女カップル行方不明事件が北朝鮮による拉致だと考えられた時代に於いても、我が国に巣食う所謂「サヨク」は拉致と北朝鮮は無関係との態度をとり続け、2002年の小泉訪朝で金正日が拉致を認めた後も、社民党のHP上には「拉致はデッチ上げ、デマである」とする文書が掲載され続けた。
今や、辛光洙は明らかなる潜伏工作員であり、その工作には、現地日本にいる在日朝鮮人の多大な協力があったことが確認されている。これには議論の余地はない。
また、拉致事件は北朝鮮が国家として実行した、我が国に対する侵略行為であり、我が国国民の人権を踏みにじる暴虐であることも議論の余地はない。
北朝鮮とは、そういう存在であり、我が国には、北朝鮮を祖国だとして北朝鮮の非合法工作員を支援する在日朝鮮人がいた。要するに、其の手の工作員が潜伏しているのは事実である。
それら事実に基づき、国際政治学者・三浦瑠麗がスリーパーセル(潜伏工作員)の存在に言及するのは当然であるのだが、所謂「サヨク」陣営からは、一斉に「デタラメだ」とか「そんなのいない」とかの火消し言説が溢れた。
確かに、2018年現在、その存在を証明する確固たる証拠はない。しかし、そんな証拠が出てくる様では潜伏工作員としては失格だ。なくて当然と言える。
同様、「スリーパーセルなんか今はいない」との「反論」にも証拠はない。
この「反論」は、噛み砕くと「以前はいたが、今はいない」というものだ。
「以前はいた」の部分は上記した事実である。一方「今はいない」は証拠なき反論である。
こういう論理展開の場合、「以前の状態(潜伏工作員がいた)が変化したとする何かしらの理由」の提示がなければ、それは単なる強弁でしかない。
即ち、「スリーパーセルはいる」という主張と同等であり、単なる「言い返し」のレベルでしかない。
「以前はいた潜伏工作員」が、どの様な事で「今はいない」になったのであろうか?
その提示がないのだから、三浦瑠麗がスリーパーセル(潜伏工作員)は存在すると話すことは充分に認められる主張に該当するものだ。
もう何十年も続いているのだが、我が国では北朝鮮にとって不利な言説があると、それが消し去られてきた。そのことを踏まえれば、今回の件は三浦瑠麗が、その標的になっているのであろう。
その昔、今や常識となった「朝鮮戦争は北朝鮮の南侵で始まった」と明示することが憚られる時代があったことを忘れない。
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【文末脚注】
<紀伊国屋書店HP 書籍検索結果>
検索書籍名【北朝鮮・銃殺した兄を返せ!】
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784915977039<検索結果>
書籍名【北朝鮮よ、銃殺した兄を返せ!―ある在日朝鮮人女性による執念の告発】
朴 春仙【著】《パク/チュンソン》〈Paku/Chung Song〉
ザ・マサダ(1994/07発売)(購入不能)
目次
第1章 鶴見区潮田の朝鮮人部落
第2章 私たちの誇り、安復兄さん
第3章 家出、そして結婚
第4章 大物スパイとの同居
第5章 初めての祖国訪問
第6章 祖国再訪
終章 兄を返してください
<検索結果引用終わり>
<あらすじ>この「銃殺された」著者の兄は、朝鮮総連の傘下組織である金剛山歌劇団(当時は在日朝鮮中央芸術団)に所属していた人物である。
著作では、著者の兄は朝鮮学校出身で朝鮮民族意識を持った人物だと書かれている。
彼は、帰国運動で北朝鮮に帰国した。
1959年12月の帰国船の第一便の新潟から出港が悲劇の始まりであった。これは、横浜の鶴見区潮田や川崎の桜本等の神奈川の在日朝鮮人組織を指導していた韓徳銖が金日成の指令を忠実に実行した「帰国事業」の第一便であったのだ。
寺尾五郎の「38度線の北」や朝日新聞は「北朝鮮=地上の楽園」だとの虚偽宣伝を行い、それに騙された多くの朝鮮人が「帰国」した。
そして、実際に北朝鮮の地にわたった在日朝鮮人達が目の当たりにしたのは、地上の楽園ではなく、金日成独裁の地獄であった。帰国船で帰国した在日朝鮮人の中にはオペラ歌手の永田絃次郎がいた。帰国船で帰る際に新潟港で歌った歌が見事だったとの言い伝えがある。家族とともに帰国したのだが、彼の妻は日本人だった。帰国後何年かして奥さんが日本に帰りたいと希望したのだがかなわず、せめて女房子供は日本に戻したいと金日成に直訴した直後、彼と家族は連行され収容所送りとなり、以降、消息不明である。
この様な悲劇は永田一家だけではない。そんな地に帰国した朴春仙の兄は、平壌放送のアナウンサーとなる。著者の朴春仙は兄の声をラジオ放送で聞き、その無事を確認できたのだが、ある日、兄の声がラジオから消え、その後、一度も登場しなくなった。
総連へ聞いても分からず、結局、かなり後になってから「スパイ行為で銃殺した」との連絡を朴春仙は受け取ったそうだ。その日時は1985年8月21日。辛光洙が逮捕されてから約2ヶ月後である。
<あらすじ終わり>
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