続々・選挙の度に繰り返される愚行Final
- 2017/10/16
- 20:05
続々・選挙の度に繰り返される愚行Final

副題:「政権運営能力がない集団に政権を任せる」との間違った結果となった選挙が、過去25年間に2回ある。二度と間違った選択をしない為に、今回衆議院選を前にした「議員の地位確保目的の離合集散」を論考する。選挙の度に繰り返させられる茶番に「期待」する程、我々国民は愚かなのか?
副題に記した様に、過去25年の間に我々は2回、「政権運営能力がない集団に政権を任せる」との間違った結果となった選挙を経験している。
1つは、あの「ルーピー鳩山民主党の「政権交代」選挙」である。我々国民が間違った選択をしたのが原因である。
もう1つは、「政権投げ出しで終わった細川内閣」である。
これは、国民の選択が間違っていたというよりも、むしろ、与野党議員の政治理念の喪失が原因だ。
与党・自民党の政治が安直に「反日新聞の報道に阿るポピュリズム」に陥り、政治理念を失った事務処理政治に堕落したことが原因の半分。「反日新聞報道」を自分の利益の為に利用して、憲政の常道を無視して、比較第5党の日本新党の細川を首班指名することを主導した小沢一郎をはじめとした理念なき各野党議員・野党諸派の不見識なる動きが残りの半分の原因だ。
過去2回の「無能力政権による不幸な時代」の到来は、その原因に大きな違いはあるものの、外形的には、議員の地位確保を目的とした「選挙用の新党」、「離合集散新党」との点で相似しており、それは今回総選挙直前の動きと相似している。
どの様に似ているのかをちょっと図で表してみる。
<選挙年月><新政権><自民党政権(評価)><選挙結果>
1993年 7月:細川内閣:宮沢内閣(×):自民党(過半数割)・社会党・新生党
2009年 8月:鳩山内閣:麻生内閣(○):民主党・自民党・公明党
2017年10月:????:安倍内閣(○):????
今回選挙と、過去の不幸な時代を造った2度の選挙で似ているのは、以下の3点である。
1)1993年7月の総選挙での、所謂「新党ブーム」と言われた「離合集散政党」と、似た動機で出来た今回の新党が、選挙に臨んでいること。これは、前回・前々回で論考したことである。
2)2009年8月の総選挙での「政権交代」とのスローガンでの「印象だけ」「勢いだけ」の雰囲気が優先され、「政策の優劣」が蔑ろにされていること。(*1)
3)2009年8月選挙前の麻生政権のリーマンショック対策の経済政策等の適切な政治運営実績を無視し、マスコミは「漢字の読み方」「ホテルのバーで酒を飲む」とかの、どうでもよいことばかりを執拗に批判した。今回もマスコミは、安倍政権の経済、外交・安保他の適切な政治運営実績を無視し、マスコミ側が火のない所に煙を立てたモリカケで騒ぎ続けている。
一方、決定的に違う部分としては、1993年7月選挙での自民党である。
過半数を取れなかったのは宮沢内閣・自民党のオウンゴール、自業自得の面が強い。
今回は、前回、前々回の流れを引き継ぎ「選挙用の新党」、「離合集散新党」に「期待」することが愚行であるとの視点から、1993年7月選挙を振り返ってみた。
今回と似た「離合集散の末に出来上がった烏合の衆が政権の座に座った事例」としての「細川政権投げ出し内閣」の事例を紹介する。
細川内閣とは、あの河野洋平が官房長官だった宮沢内閣・自民党が1993年7月選挙で比較第1党であったものの、自民党は過半数を取れず223議席(511議席の43.6%)に留まり、以下の諸派野党連合が「非自民・非共産連立」と称して、首班指名にて、比較第5党の日本新党の代表・細川護煕を首班指名して出来た烏合の衆内閣である。
<細川内閣を構成した諸派>
社 会 党 :70議席 山花貞夫・赤松広隆・村山富一他
新 生 党 :55 “ 小沢一郎・羽田孜・松沢成文他
公 明 党 :51 “ 公明党は公明党
日本新党 :35 “ 細川護煕他下記※参照
民 社 党 :15 “ 大内啓伍・米沢隆・西村慎吾他
社会民主連合:13 “ 江田五月・菅直人他
さきがけ :04 “ 武村正義・鳩山由紀夫他
- - - - - - -
諸派合計 :243議席
※<細川護煕他の日本新党での当選議員>
海江田万里・野田佳彦・前原誠司・枝野幸男・小池百合子・中田宏・河村たかし・樽床伸二他
比較第5党の細川が首班指名され、内閣総理大臣になったのだが、これは憲政の常道に反するものである。戦後の現行憲法になってから新登場した首班指名制度(現行憲法第67条)では、こういう事も可能なのであるが、イギリスの様な不成文憲法・慣習法の国では、こんな比較第5党の代表が、女王の任命を受ける為にバッキンガム宮殿を訪れても、その門が開くことはない。
我が国の場合は、慣習である憲政の常道に反しても、天皇は、現行憲法第6条の規定に基づき、細川を任命せざるを得なかったのである。比較第1党の党首でもなく、野党連合内第1党の党首でもない細川が来ても、皇居の門は閉められないのである。
こういう事態が1993年に起こっているのであるから、安易に「慣習法で良い」などと言うのは、実は危険性をはらんだものなのである。
結局、この烏合の衆内閣は1年も持たず、僅か8.5ヶ月後の翌年4月には総辞職をしている。当時、この辞任騒動は、「細川の政権ほっぽり投げ」とか言われたものである。
この原因は、多々あるとされているが、一言で言えば、細川烏合の衆内閣の中での比較第1党の社会党の裏切りだと言われている。
「不協和音」などと柔らかに表現されるケースが多々あるが、要は烏合の衆は烏合の衆であり、統一した政策・目標もなく「自民党を政権の座から引きずり下ろすのが目的」の細川連合政権には「政権の座に就いて何をやるのか」との方針もなく、新生党小沢が言っていた選挙制度改革をしただけで、経済政策や国防政策等の国家としての重大分野に対してのビジョンなどなかったのである。
細川が政権の投げ出した後は、比較第3党・連立内第2党の新生党代表の羽田が総理大臣となるが、羽田内閣は64日しか続かず、戦後最短内閣との不名誉な記録だけを残した。
無残なものであった。
そもそも、新生党の実態は、小沢一郎党だったのだが、知っての通り、小沢一郎は、責任ある立場には立たず、「院政の実力者」の立ち位置を好む政治家である。議会制民主不義の原則や政党政治などには興味がなく、数の論理を最優先させてきた政治家である。
羽田政権が64日で終了した後の内閣は、あの「村山内閣」である。
選挙での比較第1党の野党自民党と、選挙での比較第2党の社会党とが野合した「自民・社会・さきがけ」政権が誕生した。
その際、自社野合政権は社会党の村山富一を首班指名して、村山を内閣総理大臣にしたのである。
細川・羽田の烏合の衆内閣から自社野合・村山政権に至る間、衆議院選挙は行われていない。また、村山政権後の第一次橋龍内閣も選挙によって選ばれた内閣ではない。
1993年7月選挙の次の選挙は、1996年9月の総選挙である。
この3年にわたる「選挙をしないで政権が大きく変わる」期間は、国民にとって不幸な期間であった。
また同時に、自社野合・村山政権時の、「「従軍」慰安婦」とのデマに基づく「アジア助成基金(1995年7月発足)」や「村山談話(1995年8月15日)」などの「負の遺産」は、後年に於いても長く我々日本人に濡れ衣を着させ続け不幸を増大させた事が起こった時代である。
1993年7月選挙の結果は、過半数割れではあったが比較第1党は自民党であり、諸雑派連合の烏合の衆を信任したものではなかったのである。ましてや、それ以前の対抗勢力である社会党との連立政権など国民は望んでおらず、ずっと「国民の意志」を国会議員達が蔑ろにしてきた時代である。
当方とは基本姿勢が違うが「社会党を支持してきた層」も、自社野合政権を選択した社会党に愛想を尽かせ、社会党は、村山野合政権崩壊時の1996年1月に「社民党」に党名ロンダリングをしている。そして、社会党は3つに分裂している。
社会党議員の多くが民主党に合流した。
民進党の多くが、今迄所属していた党を離れ、他党・希望の党に「合流」する動きと似た動きは、既に、1996年1月には起きていたのである。
その概要をもう少し説明すれば、党名ロンダリング後に社民党単独では小選挙区化された選挙での議席獲得は至難と判断され、社会党=社民党は、民主党への「丸ごと参加」を模索していた。これもそっくりである。
この「丸ごと参加」は、当時の民主党のオーナーであったルーピー鳩山が「丸ごと参加」を拒否したことを社民党=社会党は「排除の論理」だと騒ぎ「丸ごと参加」が撤回され、議員各人での民主党参加となった。今とそっくりである。
その騒動の中、村山や土井たか子は「社民党に残留」をし、社会党内の最左派=要するにドサヨク連中は、新社会党との新党を設立して三分割された。
これもそっくりである。
民進党・前原が言う「希望の党」への「合流」と、小池百合子が言う「合流ではない」との反応は、「丸ごと参加」と「排除の論理」と相似形である。
また、三分裂も相似形である。
民進党は、希望の党へ移籍組と参議院議員は民進党に残留したままで、ドサヨクが「立憲民主党」との新党を設立している。
如何であろう、当方が「既視感がある」とした理由は、この様な、議員側のご都合で行われるバタバタが、社会党分裂時と余りにも似ているからである。
同一プレーヤーが登場していることも「同じ事をしている」と感じる原因である。
社会党三分裂の末裔である民主党が、その後、2009年8月選挙での「おQ層」の政権選択ミスで政権の座に就き、我々日本人を不幸にしたことは記憶しているだろう。(*2)
また、社会党の党名ロンダリング後の社民党は、その後、ますます「反日本人」傾向を強め、女尊男卑のひらがな「ふぇみにずむ」が中心に据えられる様になり、「朝鮮労働党の代理人」の役割を隠さなくなり、韓国内の親北反米勢力と共闘する土井・福嶋・辻本等の香ばしい人物達による泡沫政党へと凋落して現在に至っていることも記憶しているだろう。
一方、ドサヨク社会党左派の新党・新社会党がどうなったのかを知る人は少ないだろう。
それは参加メンバーに、所謂「有名議員」が少ない事も原因だが、新社会党は国政選挙で全滅しているからだ。では、ドサヨク濃縮抽出の新社会党が絶滅しているかというと、そうではない。
彼等は相変わらず反日本人活動を続けている。因みにWikiで「新社会党」検索して読んでいただければ、そこには「9条ネット」とかの、ネットではお馴染みの香ばしい集団名が出てくる。
1993年7月選挙の顛末は以上の様に「社会党の三分裂」との結末となり、社会党のダメな体質は「民主党=民進党」へと受け継がれた。
今回の選挙前の国民不在のバカ騒ぎは、あの時と本当に似ており、再度、同じ間違いを繰り返す事があってはならぬ、新党になまじ期待することは、我々日本人の未来に禍根を残すことになると憂慮している。
民主党=民進党の、小池新党・希望の党の合流は、政策集団としての政党を否定し、もっぱら自身の「国会議員の地位確保」を目的としたもので、代議士としての根本的認識が欠如したものである。
そもそもが離合集散・烏合の衆である民進党が一定程度の議席を国会で占めていても、何も国民の為になる様な政治活動をしてこなかった、というのが実態であり、同じ離合集散・烏合の衆の新政党に野党機能を期待すること自体が成り立たないと考えている。
投票は各自の判断で行っていただきたいのだが、大手メディアは、誰も1993年7月選挙の顛末を報道しないので、今回の情勢と似た事象が過去に起こっていたと記憶・認識する人は少ないのではないかと思い、長々と書いてみた。
この様な過去があったことを知った上で、各自判断していただきたい。 以上である。
【文末脚注】
(*1):雰囲気が優先され、「政策の優劣」が蔑ろにされている
2016/10/15投稿:
雰囲気で「判断」することの危険性
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-520.html
(*2):2009年8月選挙での政権選択ミスで民主党が政権の座に就き、我々日本人を不幸にした
・鳩山-菅直人(前編)
2016/02/05投稿:
【コラム】民主党政権の暴政を振り返る1
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-334.html
・菅直人(後編)-野田
2016/02/07投稿:
【コラム】民主党政権の暴政を振り返る2
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-335.html
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副題:「政権運営能力がない集団に政権を任せる」との間違った結果となった選挙が、過去25年間に2回ある。二度と間違った選択をしない為に、今回衆議院選を前にした「議員の地位確保目的の離合集散」を論考する。選挙の度に繰り返させられる茶番に「期待」する程、我々国民は愚かなのか?
副題に記した様に、過去25年の間に我々は2回、「政権運営能力がない集団に政権を任せる」との間違った結果となった選挙を経験している。
1つは、あの「ルーピー鳩山民主党の「政権交代」選挙」である。我々国民が間違った選択をしたのが原因である。
もう1つは、「政権投げ出しで終わった細川内閣」である。
これは、国民の選択が間違っていたというよりも、むしろ、与野党議員の政治理念の喪失が原因だ。
与党・自民党の政治が安直に「反日新聞の報道に阿るポピュリズム」に陥り、政治理念を失った事務処理政治に堕落したことが原因の半分。「反日新聞報道」を自分の利益の為に利用して、憲政の常道を無視して、比較第5党の日本新党の細川を首班指名することを主導した小沢一郎をはじめとした理念なき各野党議員・野党諸派の不見識なる動きが残りの半分の原因だ。
過去2回の「無能力政権による不幸な時代」の到来は、その原因に大きな違いはあるものの、外形的には、議員の地位確保を目的とした「選挙用の新党」、「離合集散新党」との点で相似しており、それは今回総選挙直前の動きと相似している。
どの様に似ているのかをちょっと図で表してみる。
<選挙年月><新政権><自民党政権(評価)><選挙結果>
1993年 7月:細川内閣:宮沢内閣(×):自民党(過半数割)・社会党・新生党
2009年 8月:鳩山内閣:麻生内閣(○):民主党・自民党・公明党
2017年10月:????:安倍内閣(○):????
今回選挙と、過去の不幸な時代を造った2度の選挙で似ているのは、以下の3点である。
1)1993年7月の総選挙での、所謂「新党ブーム」と言われた「離合集散政党」と、似た動機で出来た今回の新党が、選挙に臨んでいること。これは、前回・前々回で論考したことである。
2)2009年8月の総選挙での「政権交代」とのスローガンでの「印象だけ」「勢いだけ」の雰囲気が優先され、「政策の優劣」が蔑ろにされていること。(*1)
3)2009年8月選挙前の麻生政権のリーマンショック対策の経済政策等の適切な政治運営実績を無視し、マスコミは「漢字の読み方」「ホテルのバーで酒を飲む」とかの、どうでもよいことばかりを執拗に批判した。今回もマスコミは、安倍政権の経済、外交・安保他の適切な政治運営実績を無視し、マスコミ側が火のない所に煙を立てたモリカケで騒ぎ続けている。
一方、決定的に違う部分としては、1993年7月選挙での自民党である。
過半数を取れなかったのは宮沢内閣・自民党のオウンゴール、自業自得の面が強い。
今回は、前回、前々回の流れを引き継ぎ「選挙用の新党」、「離合集散新党」に「期待」することが愚行であるとの視点から、1993年7月選挙を振り返ってみた。
今回と似た「離合集散の末に出来上がった烏合の衆が政権の座に座った事例」としての「細川政権投げ出し内閣」の事例を紹介する。
細川内閣とは、あの河野洋平が官房長官だった宮沢内閣・自民党が1993年7月選挙で比較第1党であったものの、自民党は過半数を取れず223議席(511議席の43.6%)に留まり、以下の諸派野党連合が「非自民・非共産連立」と称して、首班指名にて、比較第5党の日本新党の代表・細川護煕を首班指名して出来た烏合の衆内閣である。
<細川内閣を構成した諸派>
社 会 党 :70議席 山花貞夫・赤松広隆・村山富一他
新 生 党 :55 “ 小沢一郎・羽田孜・松沢成文他
公 明 党 :51 “ 公明党は公明党
日本新党 :35 “ 細川護煕他下記※参照
民 社 党 :15 “ 大内啓伍・米沢隆・西村慎吾他
社会民主連合:13 “ 江田五月・菅直人他
さきがけ :04 “ 武村正義・鳩山由紀夫他
- - - - - - -
諸派合計 :243議席
※<細川護煕他の日本新党での当選議員>
海江田万里・野田佳彦・前原誠司・枝野幸男・小池百合子・中田宏・河村たかし・樽床伸二他
比較第5党の細川が首班指名され、内閣総理大臣になったのだが、これは憲政の常道に反するものである。戦後の現行憲法になってから新登場した首班指名制度(現行憲法第67条)では、こういう事も可能なのであるが、イギリスの様な不成文憲法・慣習法の国では、こんな比較第5党の代表が、女王の任命を受ける為にバッキンガム宮殿を訪れても、その門が開くことはない。
我が国の場合は、慣習である憲政の常道に反しても、天皇は、現行憲法第6条の規定に基づき、細川を任命せざるを得なかったのである。比較第1党の党首でもなく、野党連合内第1党の党首でもない細川が来ても、皇居の門は閉められないのである。
こういう事態が1993年に起こっているのであるから、安易に「慣習法で良い」などと言うのは、実は危険性をはらんだものなのである。
結局、この烏合の衆内閣は1年も持たず、僅か8.5ヶ月後の翌年4月には総辞職をしている。当時、この辞任騒動は、「細川の政権ほっぽり投げ」とか言われたものである。
この原因は、多々あるとされているが、一言で言えば、細川烏合の衆内閣の中での比較第1党の社会党の裏切りだと言われている。
「不協和音」などと柔らかに表現されるケースが多々あるが、要は烏合の衆は烏合の衆であり、統一した政策・目標もなく「自民党を政権の座から引きずり下ろすのが目的」の細川連合政権には「政権の座に就いて何をやるのか」との方針もなく、新生党小沢が言っていた選挙制度改革をしただけで、経済政策や国防政策等の国家としての重大分野に対してのビジョンなどなかったのである。
細川が政権の投げ出した後は、比較第3党・連立内第2党の新生党代表の羽田が総理大臣となるが、羽田内閣は64日しか続かず、戦後最短内閣との不名誉な記録だけを残した。
無残なものであった。
そもそも、新生党の実態は、小沢一郎党だったのだが、知っての通り、小沢一郎は、責任ある立場には立たず、「院政の実力者」の立ち位置を好む政治家である。議会制民主不義の原則や政党政治などには興味がなく、数の論理を最優先させてきた政治家である。
羽田政権が64日で終了した後の内閣は、あの「村山内閣」である。
選挙での比較第1党の野党自民党と、選挙での比較第2党の社会党とが野合した「自民・社会・さきがけ」政権が誕生した。
その際、自社野合政権は社会党の村山富一を首班指名して、村山を内閣総理大臣にしたのである。
細川・羽田の烏合の衆内閣から自社野合・村山政権に至る間、衆議院選挙は行われていない。また、村山政権後の第一次橋龍内閣も選挙によって選ばれた内閣ではない。
1993年7月選挙の次の選挙は、1996年9月の総選挙である。
この3年にわたる「選挙をしないで政権が大きく変わる」期間は、国民にとって不幸な期間であった。
また同時に、自社野合・村山政権時の、「「従軍」慰安婦」とのデマに基づく「アジア助成基金(1995年7月発足)」や「村山談話(1995年8月15日)」などの「負の遺産」は、後年に於いても長く我々日本人に濡れ衣を着させ続け不幸を増大させた事が起こった時代である。
1993年7月選挙の結果は、過半数割れではあったが比較第1党は自民党であり、諸雑派連合の烏合の衆を信任したものではなかったのである。ましてや、それ以前の対抗勢力である社会党との連立政権など国民は望んでおらず、ずっと「国民の意志」を国会議員達が蔑ろにしてきた時代である。
当方とは基本姿勢が違うが「社会党を支持してきた層」も、自社野合政権を選択した社会党に愛想を尽かせ、社会党は、村山野合政権崩壊時の1996年1月に「社民党」に党名ロンダリングをしている。そして、社会党は3つに分裂している。
社会党議員の多くが民主党に合流した。
民進党の多くが、今迄所属していた党を離れ、他党・希望の党に「合流」する動きと似た動きは、既に、1996年1月には起きていたのである。
その概要をもう少し説明すれば、党名ロンダリング後に社民党単独では小選挙区化された選挙での議席獲得は至難と判断され、社会党=社民党は、民主党への「丸ごと参加」を模索していた。これもそっくりである。
この「丸ごと参加」は、当時の民主党のオーナーであったルーピー鳩山が「丸ごと参加」を拒否したことを社民党=社会党は「排除の論理」だと騒ぎ「丸ごと参加」が撤回され、議員各人での民主党参加となった。今とそっくりである。
その騒動の中、村山や土井たか子は「社民党に残留」をし、社会党内の最左派=要するにドサヨク連中は、新社会党との新党を設立して三分割された。
これもそっくりである。
民進党・前原が言う「希望の党」への「合流」と、小池百合子が言う「合流ではない」との反応は、「丸ごと参加」と「排除の論理」と相似形である。
また、三分裂も相似形である。
民進党は、希望の党へ移籍組と参議院議員は民進党に残留したままで、ドサヨクが「立憲民主党」との新党を設立している。
如何であろう、当方が「既視感がある」とした理由は、この様な、議員側のご都合で行われるバタバタが、社会党分裂時と余りにも似ているからである。
同一プレーヤーが登場していることも「同じ事をしている」と感じる原因である。
社会党三分裂の末裔である民主党が、その後、2009年8月選挙での「おQ層」の政権選択ミスで政権の座に就き、我々日本人を不幸にしたことは記憶しているだろう。(*2)
また、社会党の党名ロンダリング後の社民党は、その後、ますます「反日本人」傾向を強め、女尊男卑のひらがな「ふぇみにずむ」が中心に据えられる様になり、「朝鮮労働党の代理人」の役割を隠さなくなり、韓国内の親北反米勢力と共闘する土井・福嶋・辻本等の香ばしい人物達による泡沫政党へと凋落して現在に至っていることも記憶しているだろう。
一方、ドサヨク社会党左派の新党・新社会党がどうなったのかを知る人は少ないだろう。
それは参加メンバーに、所謂「有名議員」が少ない事も原因だが、新社会党は国政選挙で全滅しているからだ。では、ドサヨク濃縮抽出の新社会党が絶滅しているかというと、そうではない。
彼等は相変わらず反日本人活動を続けている。因みにWikiで「新社会党」検索して読んでいただければ、そこには「9条ネット」とかの、ネットではお馴染みの香ばしい集団名が出てくる。
1993年7月選挙の顛末は以上の様に「社会党の三分裂」との結末となり、社会党のダメな体質は「民主党=民進党」へと受け継がれた。
今回の選挙前の国民不在のバカ騒ぎは、あの時と本当に似ており、再度、同じ間違いを繰り返す事があってはならぬ、新党になまじ期待することは、我々日本人の未来に禍根を残すことになると憂慮している。
民主党=民進党の、小池新党・希望の党の合流は、政策集団としての政党を否定し、もっぱら自身の「国会議員の地位確保」を目的としたもので、代議士としての根本的認識が欠如したものである。
そもそもが離合集散・烏合の衆である民進党が一定程度の議席を国会で占めていても、何も国民の為になる様な政治活動をしてこなかった、というのが実態であり、同じ離合集散・烏合の衆の新政党に野党機能を期待すること自体が成り立たないと考えている。
投票は各自の判断で行っていただきたいのだが、大手メディアは、誰も1993年7月選挙の顛末を報道しないので、今回の情勢と似た事象が過去に起こっていたと記憶・認識する人は少ないのではないかと思い、長々と書いてみた。
この様な過去があったことを知った上で、各自判断していただきたい。 以上である。
【文末脚注】
(*1):雰囲気が優先され、「政策の優劣」が蔑ろにされている
2016/10/15投稿:
雰囲気で「判断」することの危険性
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-520.html
(*2):2009年8月選挙での政権選択ミスで民主党が政権の座に就き、我々日本人を不幸にした
・鳩山-菅直人(前編)
2016/02/05投稿:
【コラム】民主党政権の暴政を振り返る1
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-334.html
・菅直人(後編)-野田
2016/02/07投稿:
【コラム】民主党政権の暴政を振り返る2
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