憲法議論9・「憲法9条の精神」とは何か?
- 2017/07/26
- 20:16
憲法議論9・「憲法9条の精神」とは何か?
<憲法議論をはじめよう10>

副題:憲法議論の9回目である。9回目なので、あらためて9条を取り上げる。「憲法9条の精神」とは、けして平和主義ではなく、日本人抑圧・圧殺の不当な差別思考である。
「憲法9条は素晴らしい」と称している勢力がいることは、多くの方がご存じの事と思うが、「いったい何が素晴らしいのか」をあらためて調べてみたのだが、「不戦の決意」「戦争反対」「戦争の道具である武器を持たないとの宣言」という様な美辞麗句が並ぶだけで、具体的なものが見つからないのである。
憲法9条に関しては、現行憲法の最大の問題のうちの1つとして、その条文内容、制定経緯他の史実を示しながら何回も論考を重ねてきている通り、あれは戦勝国による敗戦国を膺懲するのが目的の「条文」であることを論証済である。
三島由紀夫は、それを文学者らしく「詫び証文」と評した。
それなのに、「憲法9条は素晴らしい」と称している勢力がいるので、「いったい何が素晴らしいのか」をあらためて調べてみたのであるが、前述した通り、具体的なものは見つからないのである。
Google検索で調べる過程で、「憲法9条の精神」との語句が多数ヒットした。
最近の流行なのであろうか、以前の主流であった「憲法9条そのもの」を賛美・礼讃するものは影を潜め、「憲法9条の精神」へと変節している様だ。
これは多分、「憲法9条そのもの」の意味が知られる様になり、通用しなくなったので、「の精神」を付け加えて言い換えているのであろう。要するに、この言い換えは、「憲法9条そのもの」の中身を見れば、全然ダメだという事を多くの方が認識するとの照明でもある。
そして、より深く憲法9条を知れば、この様な言い換えをしても、全然「ダメなもの」であることに変わりないことがわかるであろう。
憲法9条の何がダメなのかを繰り返して述べていくことは必要だと思う。
それは、若い世代や、今まで関心がなかった方々に実態を知ってもらう為にも必要だからだ。そういう訳で、憲法9条の何がダメかをあらためて簡単に論述する。
日本国憲法 (昭和二十一年十一月三日憲法)
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html
<第9条>
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
同第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
<引用終わり>
学校で習ったことや、今まで聞いた様々な「お話」に影響されることなく、虚心坦懐に現行憲法9条の条文をお読みいただきたい。
先ず、「現行憲法の3原則の1つが平和主義」だと称される第1項であるが、その条文には、日本国民が希求する対象は「国際平和」であると書いてあることがお分かりだと思う。
「国際平和」が第1順位にあり、日本人自身の平和と安寧は、その下に置かれていることがわかるであろう。
現行憲法での「平和」の建て付けが、「国際平和」に軸足があることは、9条第1項に書かれている通りであるが、我々日本人自身の平和と安寧はどうなっているのかと言うと、それは憲法前文に書かれている。
前文の第2段落には「日本人が宣誓した」という形式で、自己決定権を放棄する旨が書かれている。
日本国憲法 (昭和二十一年十一月三日憲法)
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html
<前文・第2段落>
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
<引用終わり>
前文にもゴチャゴチャと美辞麗句が並んでいるが、肝心な部分は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」である。
この部分で、「われらの「安全」と「生存」」=「日本人の平和と安寧と命」は、「平和を愛する諸国民」が、その決定権を持つとの宣言をさせられていることがわかるであろう。
これを一言で言えば、生きるか死ぬかの生殺与奪の決定権は「平和を愛する諸国民」が持ち、日本人は持っていない=日本人に自己決定権はないという「人権無視の宣言をさせられている」ということなのである。
そういう事なので、三島由紀夫は「詫び証文」と表現しているのである。
こんな宣言は、我々日本人からしたら、まったくダメなのであるのだが、これを「平和主義」と称して、「憲法9条は素晴らしい」と言っている方々がいる。
よっぽどに独立心がないのか、日本人を他国より劣後させ隷属させておきたい「平和を愛する諸国民」を自称している日本人以外の方々ではないのか?との疑念が浮かぶのである。
憲法9条の酷さ、ダメさ加減とは、こういうものである。
ところで、「おいおい、憲法9条の話なのに、なんで前文が出て来るのだ?」との疑問を持った方がいるかもしれないと思うので、それについても説明しよう。
先ず、史実として、現在の現行憲法9条が、その草案として最初にこの世に登場したのは、GHQ草案(1946年(昭和21年)2月13日)が最初である。
詳しい事は、以前に史料を引用しながらの論考をしている(*1)ので、今回は、その概要だけにするが、占領時主権喪失期の我が国政府がGHQ命令で大日本帝国憲法の改正を指示され、その検討結果である「松本案・甲案」を吉田茂、松本自身、白洲の3氏がGHQに提出した際に、GHQは、その受け取りを拒否し、GHQ草案を渡してきたのである。
GHQ草案は、GHQのトップであるマッカーサーが示した「マッカーサー3原則」(*2)に則り、約1週間から10日程度でまとめられたものである。
要するに、現行憲法の原初はマッカーサー3原則であり、それをマッカーサーのスタッフ達が憲法法文形式にまとめたのがGHQ草案であり、その後、占領下日本での議会承認等の手続きを経て公布・施行されたのが現行憲法である。
現行憲法9条に条文に書かれていることはGHQ草案にあり、GHQ草案に書かれていることはマッカーサー3原則のうちの第2原則に書かれていたことである。
そして、マッカーサー3原則に書かれていることが、現行憲法では、前文と9条に分割記載されていることから、9条の話をする時には、前文も合わせて読まないと、現行憲法の意味や「精神」が正確には分からないという構造があるのである。
「憲法9条の話なのに、なんで前文が出て来るのだ?」との疑問に対しての説明としては、以上である。文末脚注(*1)にある様に、国会図書館の第1級の一次資料に基づいた論考なので、ご納得いただけたであろうと思うが、もしも疑問が解消しないのであれば、何が疑問なのかを具体的にコメント欄にてご連絡いただきたい。
話を戻す。
憲法9条第1項を読んでもらえれば分かる通り、あそこに書かれていることは、「「世界平和」を日本人(の魔の手)から守る」という考え方である。
ここで言う「世界平和」の「世界」とは、先の大戦の原因となった「白人植民地主義」の「世界」である。
話を続ける。
次の第2項では2つのことが書かれている。
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」との武装解除規定と「国の交戦権は、これを認めない。」との国家主権制限が書かれている。
これら国家主権制限規定と武装解除規定は、現行憲法の草案となった「GHQ草案」及びその原稿の「GHQ原案」、そして、それらの基となったマッカーサー3原則に共通したものである。そのマッカーサー3原則では「自衛戦争も認めない」との明記があり、むしろ、前文の「生殺与奪の権利は平和を愛する諸国民にある」との文脈と整合しているとの皮肉な変遷をしているが、結局、「「世界平和」を日本から守る」とのマッカサー・GHQの考え方は、第2項の国家主権制限規定と武装解除規定との手段で実現性が担保される構造としたままに現行憲法になっているのである。
この事は重要なので、別の言葉で言い直して再度書く。
独立国家としての自存自立に必須の国家主権と軍備の2つに対して、その存在を否定する国家主権制限・武装解除という具体的な規定は、「「世界平和」を日本から守る」とのマッカサー・GHQの考え方を維持する規定である。
「「世界平和」を日本から守る」為に、日本に対しては国家主権の制限をしても良い。せっかく俺達白人が平和裏に植民地支配をしていたのに、日本はそれを「侵略」したのだから武装させない。現行憲法9条は、そういう「精神」で書かれていることも分かったと思う。
詰り、「憲法9条の精神」とは、日本人悪玉論=世界平和を脅かすのは日本という不当な差別感がベースにある「精神」なのである。
そんなものだから「ダメ」だと言っているのである。
「憲法9条は素晴らしい」と称していた勢力が「憲法9条「の精神」は素晴らしい」と言い換えても、全然「ダメなもの」であることに変わりないことがわかるであろう。
憲法9条の原形が書かれたのは1946年2月のことであるのだが、20世紀の前半という時代の有色人種差別時代の戦勝国側の偏見そのものの「精神」そのままに書かれた現行憲法のままで良いのか?
そういうことを全然説明しないで「平和主義」との語句を、あたかも一般的意味での平和主義であるかの様にして「憲法9条は素晴らしい」とか言っている方々は、強烈なる日本人差別主義者なのであろうと推定される。
当方は、「我々日本人が自身の言葉で平和主義を唱える憲法」に変えるべきだと考えている。
我々日本人の自己決定権を取り戻した憲法とすべきだと考えている。
この事は、「憲法議論1」(*3)でも申し述べているが、重要なので、再度、議論テーマとして今回取り上げた。
これらを、どの様に考えるのかは、各自の判断によるものなのだが、現行憲法の実際、現行憲法の「精神」の内容を知らないで判断することは相応しくない。知った上でご判断いただきたいと希望している。
【文末脚注】
(*1):憲法9条が、その草案として最初にこの世に登場したのは何時?
2017/05/20投稿:
(資料編)憲法前文の登場・9条の登場と変遷
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-674.html
(*2):自衛戦争さえも認めないと明示されているマッカーサー原則
2016/07/31投稿:
(解説編2)資料・マッカーサー3原則
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-469.html
(*3):自己決定権を放棄することを宣言した前文
2017/05/19投稿:
憲法議論1・前文の「平和主義」
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-673.html
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<憲法議論をはじめよう10>


副題:憲法議論の9回目である。9回目なので、あらためて9条を取り上げる。「憲法9条の精神」とは、けして平和主義ではなく、日本人抑圧・圧殺の不当な差別思考である。
「憲法9条は素晴らしい」と称している勢力がいることは、多くの方がご存じの事と思うが、「いったい何が素晴らしいのか」をあらためて調べてみたのだが、「不戦の決意」「戦争反対」「戦争の道具である武器を持たないとの宣言」という様な美辞麗句が並ぶだけで、具体的なものが見つからないのである。
憲法9条に関しては、現行憲法の最大の問題のうちの1つとして、その条文内容、制定経緯他の史実を示しながら何回も論考を重ねてきている通り、あれは戦勝国による敗戦国を膺懲するのが目的の「条文」であることを論証済である。
三島由紀夫は、それを文学者らしく「詫び証文」と評した。
それなのに、「憲法9条は素晴らしい」と称している勢力がいるので、「いったい何が素晴らしいのか」をあらためて調べてみたのであるが、前述した通り、具体的なものは見つからないのである。
Google検索で調べる過程で、「憲法9条の精神」との語句が多数ヒットした。
最近の流行なのであろうか、以前の主流であった「憲法9条そのもの」を賛美・礼讃するものは影を潜め、「憲法9条の精神」へと変節している様だ。
これは多分、「憲法9条そのもの」の意味が知られる様になり、通用しなくなったので、「の精神」を付け加えて言い換えているのであろう。要するに、この言い換えは、「憲法9条そのもの」の中身を見れば、全然ダメだという事を多くの方が認識するとの照明でもある。
そして、より深く憲法9条を知れば、この様な言い換えをしても、全然「ダメなもの」であることに変わりないことがわかるであろう。
憲法9条の何がダメなのかを繰り返して述べていくことは必要だと思う。
それは、若い世代や、今まで関心がなかった方々に実態を知ってもらう為にも必要だからだ。そういう訳で、憲法9条の何がダメかをあらためて簡単に論述する。
日本国憲法 (昭和二十一年十一月三日憲法)
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html
<第9条>
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
同第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
<引用終わり>
学校で習ったことや、今まで聞いた様々な「お話」に影響されることなく、虚心坦懐に現行憲法9条の条文をお読みいただきたい。
先ず、「現行憲法の3原則の1つが平和主義」だと称される第1項であるが、その条文には、日本国民が希求する対象は「国際平和」であると書いてあることがお分かりだと思う。
「国際平和」が第1順位にあり、日本人自身の平和と安寧は、その下に置かれていることがわかるであろう。
現行憲法での「平和」の建て付けが、「国際平和」に軸足があることは、9条第1項に書かれている通りであるが、我々日本人自身の平和と安寧はどうなっているのかと言うと、それは憲法前文に書かれている。
前文の第2段落には「日本人が宣誓した」という形式で、自己決定権を放棄する旨が書かれている。
日本国憲法 (昭和二十一年十一月三日憲法)
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html
<前文・第2段落>
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
<引用終わり>
前文にもゴチャゴチャと美辞麗句が並んでいるが、肝心な部分は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」である。
この部分で、「われらの「安全」と「生存」」=「日本人の平和と安寧と命」は、「平和を愛する諸国民」が、その決定権を持つとの宣言をさせられていることがわかるであろう。
これを一言で言えば、生きるか死ぬかの生殺与奪の決定権は「平和を愛する諸国民」が持ち、日本人は持っていない=日本人に自己決定権はないという「人権無視の宣言をさせられている」ということなのである。
そういう事なので、三島由紀夫は「詫び証文」と表現しているのである。
こんな宣言は、我々日本人からしたら、まったくダメなのであるのだが、これを「平和主義」と称して、「憲法9条は素晴らしい」と言っている方々がいる。
よっぽどに独立心がないのか、日本人を他国より劣後させ隷属させておきたい「平和を愛する諸国民」を自称している日本人以外の方々ではないのか?との疑念が浮かぶのである。
憲法9条の酷さ、ダメさ加減とは、こういうものである。
ところで、「おいおい、憲法9条の話なのに、なんで前文が出て来るのだ?」との疑問を持った方がいるかもしれないと思うので、それについても説明しよう。
先ず、史実として、現在の現行憲法9条が、その草案として最初にこの世に登場したのは、GHQ草案(1946年(昭和21年)2月13日)が最初である。
詳しい事は、以前に史料を引用しながらの論考をしている(*1)ので、今回は、その概要だけにするが、占領時主権喪失期の我が国政府がGHQ命令で大日本帝国憲法の改正を指示され、その検討結果である「松本案・甲案」を吉田茂、松本自身、白洲の3氏がGHQに提出した際に、GHQは、その受け取りを拒否し、GHQ草案を渡してきたのである。
GHQ草案は、GHQのトップであるマッカーサーが示した「マッカーサー3原則」(*2)に則り、約1週間から10日程度でまとめられたものである。
要するに、現行憲法の原初はマッカーサー3原則であり、それをマッカーサーのスタッフ達が憲法法文形式にまとめたのがGHQ草案であり、その後、占領下日本での議会承認等の手続きを経て公布・施行されたのが現行憲法である。
現行憲法9条に条文に書かれていることはGHQ草案にあり、GHQ草案に書かれていることはマッカーサー3原則のうちの第2原則に書かれていたことである。
そして、マッカーサー3原則に書かれていることが、現行憲法では、前文と9条に分割記載されていることから、9条の話をする時には、前文も合わせて読まないと、現行憲法の意味や「精神」が正確には分からないという構造があるのである。
「憲法9条の話なのに、なんで前文が出て来るのだ?」との疑問に対しての説明としては、以上である。文末脚注(*1)にある様に、国会図書館の第1級の一次資料に基づいた論考なので、ご納得いただけたであろうと思うが、もしも疑問が解消しないのであれば、何が疑問なのかを具体的にコメント欄にてご連絡いただきたい。
話を戻す。
憲法9条第1項を読んでもらえれば分かる通り、あそこに書かれていることは、「「世界平和」を日本人(の魔の手)から守る」という考え方である。
ここで言う「世界平和」の「世界」とは、先の大戦の原因となった「白人植民地主義」の「世界」である。
話を続ける。
次の第2項では2つのことが書かれている。
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」との武装解除規定と「国の交戦権は、これを認めない。」との国家主権制限が書かれている。
これら国家主権制限規定と武装解除規定は、現行憲法の草案となった「GHQ草案」及びその原稿の「GHQ原案」、そして、それらの基となったマッカーサー3原則に共通したものである。そのマッカーサー3原則では「自衛戦争も認めない」との明記があり、むしろ、前文の「生殺与奪の権利は平和を愛する諸国民にある」との文脈と整合しているとの皮肉な変遷をしているが、結局、「「世界平和」を日本から守る」とのマッカサー・GHQの考え方は、第2項の国家主権制限規定と武装解除規定との手段で実現性が担保される構造としたままに現行憲法になっているのである。
この事は重要なので、別の言葉で言い直して再度書く。
独立国家としての自存自立に必須の国家主権と軍備の2つに対して、その存在を否定する国家主権制限・武装解除という具体的な規定は、「「世界平和」を日本から守る」とのマッカサー・GHQの考え方を維持する規定である。
「「世界平和」を日本から守る」為に、日本に対しては国家主権の制限をしても良い。せっかく俺達白人が平和裏に植民地支配をしていたのに、日本はそれを「侵略」したのだから武装させない。現行憲法9条は、そういう「精神」で書かれていることも分かったと思う。
詰り、「憲法9条の精神」とは、日本人悪玉論=世界平和を脅かすのは日本という不当な差別感がベースにある「精神」なのである。
そんなものだから「ダメ」だと言っているのである。
「憲法9条は素晴らしい」と称していた勢力が「憲法9条「の精神」は素晴らしい」と言い換えても、全然「ダメなもの」であることに変わりないことがわかるであろう。
憲法9条の原形が書かれたのは1946年2月のことであるのだが、20世紀の前半という時代の有色人種差別時代の戦勝国側の偏見そのものの「精神」そのままに書かれた現行憲法のままで良いのか?
そういうことを全然説明しないで「平和主義」との語句を、あたかも一般的意味での平和主義であるかの様にして「憲法9条は素晴らしい」とか言っている方々は、強烈なる日本人差別主義者なのであろうと推定される。
当方は、「我々日本人が自身の言葉で平和主義を唱える憲法」に変えるべきだと考えている。
我々日本人の自己決定権を取り戻した憲法とすべきだと考えている。
この事は、「憲法議論1」(*3)でも申し述べているが、重要なので、再度、議論テーマとして今回取り上げた。
これらを、どの様に考えるのかは、各自の判断によるものなのだが、現行憲法の実際、現行憲法の「精神」の内容を知らないで判断することは相応しくない。知った上でご判断いただきたいと希望している。
【文末脚注】
(*1):憲法9条が、その草案として最初にこの世に登場したのは何時?
2017/05/20投稿:
(資料編)憲法前文の登場・9条の登場と変遷
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-674.html
(*2):自衛戦争さえも認めないと明示されているマッカーサー原則
2016/07/31投稿:
(解説編2)資料・マッカーサー3原則
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-469.html
(*3):自己決定権を放棄することを宣言した前文
2017/05/19投稿:
憲法議論1・前文の「平和主義」
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-673.html



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