捏造話「9条起源は幣原喜重郎」
副題:戦後70年以上が経過し、史実とは違う戦後史の捏造話を創作する不逞の輩が出てきている。「幣原が9条の起源」との捏造話を生き証人中曽根元首相はきっぱりと否定している。
【9条の起源を一部では当時の幣原喜重郎首相がマッカーサーへ申し出たものといわれるが、明らかな間違いだ。マッカーサー草案が付された昭和21年2月の閣議で幣原首相は明確に反対している。当時の秘書の記録にも「9条については反対」と首相自身が発言していることが記されている。】
これは、今年5月12日の産経ニュースに掲載された中曽根元首相の言葉である。(*1)
今年で99歳になる中曽根元首相が国会議員に初当選したのは、1947年(昭和22年)4月25日に行われた第23回衆議院議員総選挙でのことである。
現行憲法が施行されたのが1947年5月3日なので、現行憲法施行前の選挙であるが、この選挙で選出された議員は、現行憲法第103条規定により、現行憲法下の「国会の衆議院議員」である。
中曽根元首相は、この総選挙で群馬3区から立候補して当選している。
所属政党は幣原喜重郎率いる「民主党」である。
「民主党」と言っても、ルーピー鳩山や菅直人の民主党ではない。
当時の「民主党」は、現在の「自由「民主」党」の「民主」に名を残す、当時の保守政党である。1955年(昭和30年)に「日本自由党」と、この「民主党」が「保守合同」して出来たのが「自由民主党」である。
中曽根元首相は、自民党の前身の「民主党」から立候補していたのであるが、当時の民主党の当選議員には、他に幣原喜重郎、田中角栄等がいる。(*2)
1947年当時の民主党は幣原喜重郎が率いた党である。
何を言いたいかというと、中曽根は幣原と近いということだ。
中曽根のことを「生き証人」と称して良いということだ。
冒頭に紹介した「幣原が9条の起源」などという戯言は、「生き証人中曽根」により、キッパリと否定されているということである。
本稿の目的・結論は以上の通りである。
一方、「幣原が9条の起源」なる話こそ「初耳だ」という方が多いと思う。
特に、戦後史や現行憲法制定過程に多少の知見がある方ほど「なんじゃそれ?」との感覚があると思う。
「なんじゃそれ?」と感じるのは、無理もない。
これは最近創作された捏造話だからである。
当方も含め、多くの日本人が戦後に産れた世代であり、「戦前」だけでなく「戦後」も「歴史」になっている。そんなことから、歴史を捻じ曲げて利用することに抵抗感がない日本人離れした奴等が、創作話をデッチ上げる事例が出てきている。
史実にない「創作話」の典型事例が「「従軍」慰安婦」であることはご存じのことだと思う。
この「幣原が9条の起源」との捏造話の存在さえ知らない方もいると思うので、それを紹介しておく。知った上で、それが捏造話であると認識することが大事だと思うからの紹介であり、この捏造話を流布することが目的ではない。その点、誤解のない様に予め明示しておく。
この捏造話を当方が最初に発見したのは、2016年8月12日の東京新聞記事(*3)であるが、その約半年前から3ヶ月前に古館時代の報道ステーションが、この捏造話を宣伝している。
報道ステーションの2016年2月26日及び5月3日に放送されたものが「元ネタ」である。
まだ古館がやっていた頃の2月26日放送分は削除されており、一部のみを切り取った動画しか発見出来ていないが、5月3日分は以下のタイトルでデイリーモーションに動画があることを確認している。(*4)
【憲法9条の提案者は幣原喜重郎首相20160503houdoustatin】 動画を見ればわかる通り、スタジオで解説している人物は、あの木村草太である。
「木村草太」「報道ステーション」とのキーワードで想起されるのは、2016年3月の「ワイマール特集」である。
ドイツ現地取材VTRの最後に憲法部分監修で木村草太の名前がキャプションされている。
報道ステーションの「ワイマール特集」は、映像と音声で事実をネジ曲げた印象操作を垂れ流したものであり、同特集は、法治主義を有事に於いても貫徹するとの人類の知恵である緊急事態条項の必要性をネジ曲げて、そらがあたかも「危険な条項」であるが如き虚偽をタレ流した悪質なものであった。
その欺瞞性についての論評(*5)は、タグ「緊急事態条項」の諸論で詳しく説明・論評しているので、そちらをご覧いただきたい。
「ワイマール特集」に比して、5月3日放送の「憲法9条の提案者は幣原喜重郎首相」の方は歯切れが悪い。最初から言い訳をしている。
「諸説ある」とか「確定していない」とかのエクスキューズの後に、①:幣原自身がその様に発言している、②:後年マッカーサーが質問状に対してその旨を回答しているとの情報を「根拠」に「憲法9条の提案者は幣原喜重郎首相」との推理をしているのである。
結論を先に書くと、後年になってからの幣原証言は、自身が現行憲法制定の責任を背負うとの覚悟の上での発言であり、マッカーサーは責任追及をかわす為の発言だと解するものである。
マッカーサーによる占領基本法押し付けとの定説を覆す様な「証言」ではない。
先に紹介した2016年8月12日の東京新聞記事(*3)及び同日の同紙別記事(*6)によれば、1957年(昭和32年)、岸内閣の下で議論が始まった当時の憲法調査会の高柳賢三会長が、憲法の成立過程を調査するため1958年に渡米し、マッカーサーに質問状を渡し、その回答を得ているそうだ。
東京新聞記事(*1)の文章を引用すると、「高柳は五八年十二月十日付で、マッカーサーに宛てて「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか。それとも貴下が憲法に入れるよう勧告されたのか」と手紙を送った。」「マッカーサーから十五日付で返信があり、「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」と」ある。
幣原喜重郎ほどの人物が、自身が総理の時代に起草した「松本案」とまったく違うことを自身が言いだすことに違和感を持たない今の「研究者」にはわからないのであろう。
岸内閣(1957年2月25日-1960年7月19日)時代から約60年間、「幣原が9条の起源」などという話は流通していないのである。
上記で紹介したデイリーモーションの動画にもある様に、幣原喜重郎は我が国国体の本義たる皇統の維持を最優先に考え行動した人物である。あの時代にあって誠に正しい判断基準である。
穏健路線の「幣原外交」で知られる幣原喜重郎は、以下の時系列の通り、日本側草案をちゃぶ台返しで否定した上で、それとはまったく違うGHQ草案を突き付けられたのである。
この時期に於いて、GHQが握っていた「人質」である天皇陛下と皇統の維持を最優先したことが偲ばれる。
幣原は東京新聞記事では、幣原自身が後年になって「自分が提案した」と言っているのだが、それは幣原の覚悟である。幣原喜重郎は自身が汚名背負っても我が国の存続を優先させる為に、その様なことを言っているのであると解するのが正しい。
1)松本4原則(1945年12月8日)
↓
2)マッカーサー3原則(1946年2月3日)
↓
3)松本案「憲法改正要綱」をGHQに提出・拒否(1946年2月8日)
↓
4)GHQ草案を日本側に手交(1946年2月13日)
↓
5)以降、GHQ草案に基づき調整が続き1946年11月3日公布、1947年5月3日施行
↓
6)サンフランシスコ講和条約1951年9月8日調印、1952年4月28日発効
(上記憲法草案のエッセンス以外の時系列については文末脚注(*7)を参照願いたい。そこには、ドイツ・ニュールンブルグ裁判・東京裁判の時系列も書いた。)
幣原喜重郎ほどの人物が、現行憲法条文の主旨たる、基本的国家主権である交戦権の否定、国防の否定を自分から言い出す訳がない。
その様な不条理であっても、天皇陛下の命・皇統の維持の方が重大事であったとの当時の状況からの苦渋の選択の結果が現行憲法の草案であると解するのが正しい。
現行憲法の公布前、憲法審議を行った第90回帝国議会 (1946年6月20日から同年10月11日)で、共産党の野坂参三は、「わが国が自衛権を放棄して民族の独立を危うくする危険がある。それゆえにわが党は民族独立のためにこの憲法に反対しなければならない」旨を述べているが、その時点で共産党が「我民族の独立には天皇の存在が必須」との意識はなかったことは想像に難くない。
後年、三島由紀夫は天皇なき大和民族の腑抜けを厳しく批判しているが、その点、幣原喜重郎の見識は高かったのである。
この時代は占領時主権喪失期であり、GHQによる言論統制措置であるプレスコードの第一弾「日本に与うる新聞遵則」が1945年9月には発令され、その翌年の1946年11月25日付の書類には、検閲対象30項目が記載され、その3番目が「GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」である。
そういう時代に於いて、主権はGHQに握られ、国会に於いては共産党が「正論」を述べて突き上げをしている状態である。
もしも共産党が、「天皇の命を優先し、我が国国民を非武装との無防備状態にするとは、国民の命を以て天皇を命に代える暴挙である~」との批判をしてきたら、これへの反論はGHQの暴挙であるとの、当時は禁句だった正論でしか対処が出来ない状態であったのだ。
つまり、前門の虎・GHQの暴挙(天皇を人質に無理難題を押し付ける)を言えない状態で後門の狼・共産党が非武装・無防備状態を批判するとの「正論」で責められている状態だ。
幣原喜重郎は、幣原外交で知られる様に、パリ不戦条約の骨子である主権国家間のお約束事としての「戦争放棄」は熟知しているだろう。一方、マッカーサーGHQが突き付けてきた交戦権否定は、日本1国だけが「戦争の放棄」を宣言し、かつ、自衛権行使の手段たる軍事力さえも放棄するとのもので、パリ不戦条約とは似ても似つかぬものである。
正にGHQの暴挙、「日本さえ封じ込めておけば世界は平和」なる歪んだものであったのだが、現行憲法として今も残る、これら「猛毒」の総てを排除することは、当時は不可能事であり、最重要事を優先させ、これら「猛毒」を飲み込んだものだと解される。
そして、幣原喜重郎は、GHQの暴挙を受け入れたのではなく、自身が提案したとの汚名背負う物語を覚悟の上で発したと解される。
幣原の次の総理である吉田茂は、その後、吉田ドクトリンで知られる「憲法9条を逆手にとった政策」で日本人が米軍の先兵となって戦争に出兵する事態を防いだ。
あの時代に於いては幣原も吉田も正解であったと思う。
朝鮮戦争が停戦に至るのは1953年7月のことである。
フランスが旧庶民地ベトナムへ再侵出した第一次インドシナ戦争で敗北し、ベトナムから撤退後、アメリカが南ベトナムへの介入をし始めた時期は1954年頃である。
岸内閣下で高柳がマッカーサーに書簡を送った1958年、南ベトナムでは反共政府の強行策により不穏な状態となっていた時代である。
一方のマッカーサーは、朝鮮戦争初期の1951年4月に解任され退役した人物である。
退役後、公聴会への出席や、共和党の大統領候補への立候補等はあるが、予備選ではアイゼンハワーに敗れ、歴史の第一線からは退いている。
回答書簡の日付は、前述の新聞記事によると1958年12月15日である。
退役後、既に4年と8か月が過ぎており、マッカーサーは78歳である。
マッカーサーがやった暴挙は2つあり、その1つが現行占領憲法押し付けである。そして2つ目が、占領憲法で「交戦権なし・陸海空その他の戦力の保持禁止」を押し付けておきながら、朝鮮戦争が勃発すると、それら憲法条項を無視して、自衛隊の前身である「警察予備隊」の創設を命令したことである。
マッカーサーは1958年時点で「あなたは、ハーグ陸戦条約違反をしましたか?」との質問をされて、「日本の憲法は俺が起草した」と答えられるほどの精気は残っていまい。
この6年後の1964年にマッカーサーは84歳で没するのであった。
昨年2016年夏の大統領選の最中に、当時の現役副大統領バイデンが発言した「we wrote the Japanese constitution so they could not own a nuclear weapon」(我々アメリカが日本国憲法を書いた。だから日本は核兵器を所有出来ないのだ。)とは、アメリカが現行憲法をハーグ陸戦条約違反しながら押し付けたことを白状したものだ。(*8)
押し付け当時から既に70年が経過しており、このバイデン発言を問題視するアメリカ国内世論は見当たらないが、戦後僅か13年しか経ていない1958年時点で「私マッカーサーが、我々アメリカが、日本国憲法を書いた。」とは言える環境ではなかったことはお分かりのことだと思う。
「我々アメリカが日本国憲法を書いた」とのバイデン副大統領の発言は、アメリカ自身が占領当時、我国に対して言論統制をしていたものを、アメリカ自身が破棄したものだと解している。
「アメリカの言論統制」は解けた様だが、我国では、別の言論統制が行われている。
その代表的なものが、朝日新聞や、その系列TV局テレ朝らの「報道しない自由」である。
そして、「報道しない自由」を片手に、もう一方の手には「捏造話の流布」を以て、我国歴史を捻じ曲げている。
1945年夏以降からの憲法制定過程での史実を捻じ曲げて提示される捏造話は、我々日本人の手によって提示されるべき平和主義の理念を描いた新たな憲法を歪めるものであり、若い世代やこれから生まれる日本人への悪影響を考えれば容認できないものである。
「幣原が9条の起源」との捏造話は、幣原喜重郎と戦後の同時代を生きた中曽根元首相が生き証人としてキッパリと否定していることから、以前に取り上げた同種論評をUpdateさせていただいた。
長文となったが、それは、提示されたデタラメを否定するには、多大な労力がかかる為の宿命であるとご理解いただきたい。
それは、「「従軍」慰安婦」のデマを否定する苦労、「南京「大虐殺」」とのデマを否定する苦労に比べれば軽微だが、同様の性格のものだからである。
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FC2 Blog Ranking 【文末脚注】
(*1):中曽根元首相の言葉「9条の起源を一部では当時の幣原喜重郎首相がマッカーサーへ申し出たものといわれるが、明らかな間違いだ。」
2017/05/13投稿:
「国民憲法制定」白寿中曽根、相変わらずです。
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-668.html (*2):中曽根初当選の第23回衆議院議員総選挙(Wikiより抜粋引用)
第23回衆議院議員総選挙は、1947年(昭和22年)4月25日に行われた衆議院議員選挙である。現行憲法施行直前の選挙
<民主党の当選議員124議席>
幣原喜重郎、田中角栄、園田直、中曽根康弘等、
<日本自由党の当選議員131議席>
吉田茂、松野頼三、石橋湛山等
<以下略>
(*3):東京新聞記事(2016年8月12日 朝刊)
東京新聞 2016年8月12日 朝刊
見出し:◆「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201608/CK2016081202000116.html 記事:○日本国憲法の成立過程で、戦争の放棄をうたった九条は、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)首相(当時、以下同じ)が連合国軍総司令部(GHQ)側に提案したという学説を補強する新たな史料を堀尾輝久・東大名誉教授が見つけた。史料が事実なら、一部の改憲勢力が主張する「今の憲法は戦勝国の押しつけ」との根拠は弱まる。今秋から各党による憲法論議が始まった場合、制定過程が議論される可能性がある。 (安藤美由紀、北條香子)
<以下略>
注:記事中に「史料が事実なら」とある様に、腰が引けている。実際、事実ではなかったのである。
(*4):報道ステーション2016年5月3日放送の捏造話
【憲法9条の提案者は幣原喜重郎首相20160503houdoustatin】
http://www.dailymotion.com/video/x48iuy5 ※捏造話なので、視聴する際には注意が必要である。
(*5):報道ステーションの緊急事態条項へのレッテル貼り
最初の投稿・2016/03/20投稿:
【コラム】報ステ「ワイマール憲法」の笑止千万
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-366.html <他の投稿は以下のタグにて参照いただきたい>
タグ「緊急事態条項」
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-category-9.html (*6):東京新聞記事(2016年8月12日 朝刊)の別記事
東京新聞 2016年8月12日 朝刊
見出し:◆「9条提案は幣原首相」 史料発見の東大名誉教授・堀尾輝久さんに聞く
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201608/CK2016081202000136.html 記事本文:○憲法9条は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)首相が提案したという学説を補強する新たな史料を見つけた堀尾輝久・東大名誉教授に、発見の意義などを聞いた。 (北條香子、安藤美由紀)
○-なぜ、書簡を探したのか。
「安倍政権は、戦争放棄の条文化を発意したのはマッカーサーという見解をベースに改憲を訴えている。マッカーサー連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官が高柳賢三・憲法調査会長の質問に文書で回答したのは知っていたが、何月何日に回答が来て、どういう文脈だったのか分かっておらず、往復書簡そのものを探し出そうと思った」
○-書簡発見の意義は。
「マッカーサーは同じような証言を米上院や回想録でもしているが、質問に文書で明確に回答したこの書簡は、重みがある」
○-二項も、幣原の発案と考えていいのか。
「一項だけでは(一九二八年に締結され戦争放棄を宣言した)パリ不戦条約そのもの。往復書簡の『九条は幣原首相の先見の明と英知』、幣原の帝国議会での『夢と考える人があるかもしれぬが、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚まし、後方から付いてくる』などの発言を考えると、二項も含めて幣原提案とみるのが正しいのではないか」
○-幣原がそうした提案をした社会的背景は。
「日本にはもともと中江兆民、田中正造、内村鑑三らの平和思想があり、戦争中は治安維持法で押しつぶされていたが、終戦を機に表に出た。民衆も『もう戦争は嫌だ』と平和への願いを共有するようになっていた。国際的にも、パリ不戦条約に結実したように、戦争を違法なものと認識する思想運動が起きていた。そうした平和への大きなうねりが、先駆的な九条に結実したと考えていい」
○-今秋から国会の憲法審査会が動きだしそうだ。
「『憲法は押しつけられた』という言い方もされてきたが、もはやそういう雰囲気で議論がなされるべきではない。世界に九条を広げる方向でこそ、検討しなければならない」
<ほりお・てるひさ> 1933年生まれ。東大名誉教授、総合人間学会長。教育学、教育思想。東大教育学部長、日本教育学会長、日本教育法学会長などを歴任した。著書に「現代教育の思想と構造」「教育を拓く」など。
<たかやなぎ・けんぞう> 1887~1967年。法学者。成蹊大学初代学長。専攻は英米法。22年に東大教授となり、東京裁判で日本側弁護団のリーダー格を務めたとされる。帝国議会貴族院議員として46年、憲法審議に関わった。57年に憲法調査会長に選ばれ、憲法の再検討に当たった。
<引用終わり>
(*7):戦後史(憲法制定過程)の時系列紹介
2016/05/23投稿:
歴史年表・戦後史部分の概観
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-419.html 2017/05/20投稿:
(資料編)憲法前文の登場・9条の登場と変遷
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-674.html (*8):バイデン発言「我々アメリカが日本国憲法を書いた」
2016/09/02投稿:
バイデン発言(前編)
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-495.html 2016/09/05投稿:
バイデン発言(後編)
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-496.html バイデン発言の際に論評したことが、生き証人中曽根元首相の発言にて裏付けられたことから、上記記事をUpdateしたものが今回記事である。
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