「ヨンニッパ・沖縄反戦デー」
- 2017/04/28
- 20:02
「ヨンニッパ・沖縄反戦デー」

副題:「沖縄が返還されてない!」との話は、その通りなのだが、無理筋だよね。
題名の「ヨンニッパ・沖縄反戦デー」とは、新左翼用語である。
表記するときは、「428」とか「4.28」とするが、敢えて発音である「ヨンニッパ」と書いた。
この「ヨンニッパ・沖縄反戦デー」の意味を知ったのは、当方が大学生の頃だったと思う。
それ以前の1960年代後半、所謂「学園闘争」で騒然となっていた時代に、「ヨンニッパ・沖縄反戦デー」で騒然となった事件もあるが、60年代後半当時の当方は義務教育期間中であり、その意味を知らなかった時代である。
「ヨンニッパ」はサンフランシスコ講和条約の発効日1952年4月28日に由来する。
戦後、1945年9月2日を以て我国は占領下に置かれ、占領軍GHQ施政下に置かれた。
我国が独立を回復するのは、その6年7ヶ月後の1952年4月28日のことであった。
その際に、沖縄、奄美諸島、小笠原諸島は引き続き米軍施政下に置かれ、奄美の本土復帰は1953年12月25日、小笠原の本土復帰は1968年6月26日のことであった。
そして、沖縄の本土復帰は近隣の奄美から大きく遅れ1972年5月15日となった。
沖縄、奄美、小笠原の人々からすれば、主権回復時の「取り残された感」は相当なものであったそうだ。
その「取り残され感」を実際に経験したことがある方から話を聞いたことがある。
戦後、復帰前の奄美にて足止めとなり、長い間、横浜に帰れなかった方からの体験談であるが、その話の日付等を確認しようとネット検索をしたところ、聞いていた話とは全然ニュアンスが違っていた。
その方からの聞いた体験談に「復帰嘆願の時の共産党は危なっかしかった」との話があったことだけは書いておく。
奄美が本土復帰したのは、主権回復から1年8か月後である。
一方、沖縄の本土復帰は1972年5月15日、主権回復後20年である。
奄美に比べ、随分と遅かった理由は、その地政学的重要性にある。
先ず地理的要素としては、地図で確認していただければわかる通り、九州・鹿児島大隅半島から台湾島へと続く島々は、九州近隣の種子島、屋久島があり、ちょっと離れて奄美大島、徳之島があり、その近隣に連続して沖縄本島があり、またちょっと離れて、宮古島、石垣島等が続き、台湾島に至る。
これら南西諸島の列の真ん中に位置するのが沖縄本島である。
次に、政治的要素であるが、ご存じの様に沖縄本島は、沖縄戦で地上戦が行われ米軍が戦争によって占拠した地であった。
一方、奄美大島は、沖縄戦後に予想される侵攻に備えていたが終戦により、地上戦は起こっていない。
沖縄の本土復帰が実現した歴史を知っている我々は、現在の価値観の中で生きているので気が付き難いであろうが「戦闘に勝利して得た土地」が戦争によらずに返還されることは基本的にあり得ず、沖縄と奄美との差異は、そういうことも関係している。
現在、沖縄が本土復帰して約45年が経過しているが、その地理的位置が南西諸島の中心位置にあること、その対岸の支那大陸に存在する中国が国債秩序に従わない国であること等から、自律的な自主防衛が「憲法の制約」で出来ない我国は、米国と日米安保条約を締結し国土防衛をしているが、安保条約に基づき沖縄には米軍基地が存在し続けている。
それが現状だ。
「ヨンニッパ沖縄反戦デー」は、1960年に結成された沖縄の「復帰条議会」が始めたとされているが、それが何時からはじまったのかは調べても分からなかった。
最初に紹介した様に、「学園紛争」の時代の1969年4月28日には、「沖縄反戦デー闘争」が東京駅、新橋駅、御茶ノ水駅等で起こっている。
このことからは、1960年の団体結成以降から1669年迄には「ヨンニッパ沖縄反戦デー」との新左翼用語が存在していたと推定される。
当方が、この「ヨンニッパ沖縄反戦デー」の意味を知った大学生の頃には、既に、沖縄の本土復帰が実現しており、その頃に、「ヨンニッパ沖縄反戦デー」の話を聞いて感じたのは、「本土復帰が遅れたことを利用した反米・反基地政治運動」だというものであった。
その当時は、まだベトナム戦争が継続している時代であり、東西冷戦が終わるのは、その後、約20年を要する時代であった。
当時の当方の認識は、「復帰実現した沖縄」の存在は、「復帰に取り残された。本土復帰実現」との「ヨンニッパ」の原初的、基本的問題点が解消済であるというものであり、幾ら復帰遅れを詰っても、ピンとこなかったものである。
その当時から、「ヨンニッパ」の実態は、「復帰遅れ」を抗議するものではなく、沖縄反基地闘争のダシに使われていると理解したものだった。
サヨクな方々は、それでも「遅れたこと」を理由にゴチャゴチャ言っていた様に記憶している。
「遅れたのはけしからん」との言い分に対して、当方は、当時は「地政学」の知識はなかったので、アチソン・ラインを題材に、サンフランシスコ平和条約締結の1951年9月8日時点で南西諸島地域を含めた占領終了は防衛問題を考えれば無理筋なのではないのか、とかを言っていた様に思う。
今考えれば、「ヨンニッパ」を語っていた彼等・彼女等は、本質を隠した「議論」を通じた共産主義勢力支援をしていたのであり、同時に、オルグだったのだとわかるのだが、当時の当方は充分に若かったのである。
当方の当時の主観では、論理的思考から出てきた疑問点を素直に聞いていたつもりだったのである。
現在の沖縄の基地問題と言えば、少し前までは、普天間基地の危険性が盛んに喧伝されていたのだが、その危険な普天間基地をなくす為に、代替施設を辺野古につくるとなったら、今度は、辺野古反対ばかりが喧伝され、危険な普天間との話はめっきり聞こえなくなった。
こういう本質を隠した「議論」はいい加減やめていただきたい。
そんなことを思い出した4月28日であった。
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副題:「沖縄が返還されてない!」との話は、その通りなのだが、無理筋だよね。
題名の「ヨンニッパ・沖縄反戦デー」とは、新左翼用語である。
表記するときは、「428」とか「4.28」とするが、敢えて発音である「ヨンニッパ」と書いた。
この「ヨンニッパ・沖縄反戦デー」の意味を知ったのは、当方が大学生の頃だったと思う。
それ以前の1960年代後半、所謂「学園闘争」で騒然となっていた時代に、「ヨンニッパ・沖縄反戦デー」で騒然となった事件もあるが、60年代後半当時の当方は義務教育期間中であり、その意味を知らなかった時代である。
「ヨンニッパ」はサンフランシスコ講和条約の発効日1952年4月28日に由来する。
戦後、1945年9月2日を以て我国は占領下に置かれ、占領軍GHQ施政下に置かれた。
我国が独立を回復するのは、その6年7ヶ月後の1952年4月28日のことであった。
その際に、沖縄、奄美諸島、小笠原諸島は引き続き米軍施政下に置かれ、奄美の本土復帰は1953年12月25日、小笠原の本土復帰は1968年6月26日のことであった。
そして、沖縄の本土復帰は近隣の奄美から大きく遅れ1972年5月15日となった。
沖縄、奄美、小笠原の人々からすれば、主権回復時の「取り残された感」は相当なものであったそうだ。
その「取り残され感」を実際に経験したことがある方から話を聞いたことがある。
戦後、復帰前の奄美にて足止めとなり、長い間、横浜に帰れなかった方からの体験談であるが、その話の日付等を確認しようとネット検索をしたところ、聞いていた話とは全然ニュアンスが違っていた。
その方からの聞いた体験談に「復帰嘆願の時の共産党は危なっかしかった」との話があったことだけは書いておく。
奄美が本土復帰したのは、主権回復から1年8か月後である。
一方、沖縄の本土復帰は1972年5月15日、主権回復後20年である。
奄美に比べ、随分と遅かった理由は、その地政学的重要性にある。
先ず地理的要素としては、地図で確認していただければわかる通り、九州・鹿児島大隅半島から台湾島へと続く島々は、九州近隣の種子島、屋久島があり、ちょっと離れて奄美大島、徳之島があり、その近隣に連続して沖縄本島があり、またちょっと離れて、宮古島、石垣島等が続き、台湾島に至る。
これら南西諸島の列の真ん中に位置するのが沖縄本島である。
次に、政治的要素であるが、ご存じの様に沖縄本島は、沖縄戦で地上戦が行われ米軍が戦争によって占拠した地であった。
一方、奄美大島は、沖縄戦後に予想される侵攻に備えていたが終戦により、地上戦は起こっていない。
沖縄の本土復帰が実現した歴史を知っている我々は、現在の価値観の中で生きているので気が付き難いであろうが「戦闘に勝利して得た土地」が戦争によらずに返還されることは基本的にあり得ず、沖縄と奄美との差異は、そういうことも関係している。
現在、沖縄が本土復帰して約45年が経過しているが、その地理的位置が南西諸島の中心位置にあること、その対岸の支那大陸に存在する中国が国債秩序に従わない国であること等から、自律的な自主防衛が「憲法の制約」で出来ない我国は、米国と日米安保条約を締結し国土防衛をしているが、安保条約に基づき沖縄には米軍基地が存在し続けている。
それが現状だ。
「ヨンニッパ沖縄反戦デー」は、1960年に結成された沖縄の「復帰条議会」が始めたとされているが、それが何時からはじまったのかは調べても分からなかった。
最初に紹介した様に、「学園紛争」の時代の1969年4月28日には、「沖縄反戦デー闘争」が東京駅、新橋駅、御茶ノ水駅等で起こっている。
このことからは、1960年の団体結成以降から1669年迄には「ヨンニッパ沖縄反戦デー」との新左翼用語が存在していたと推定される。
当方が、この「ヨンニッパ沖縄反戦デー」の意味を知った大学生の頃には、既に、沖縄の本土復帰が実現しており、その頃に、「ヨンニッパ沖縄反戦デー」の話を聞いて感じたのは、「本土復帰が遅れたことを利用した反米・反基地政治運動」だというものであった。
その当時は、まだベトナム戦争が継続している時代であり、東西冷戦が終わるのは、その後、約20年を要する時代であった。
当時の当方の認識は、「復帰実現した沖縄」の存在は、「復帰に取り残された。本土復帰実現」との「ヨンニッパ」の原初的、基本的問題点が解消済であるというものであり、幾ら復帰遅れを詰っても、ピンとこなかったものである。
その当時から、「ヨンニッパ」の実態は、「復帰遅れ」を抗議するものではなく、沖縄反基地闘争のダシに使われていると理解したものだった。
サヨクな方々は、それでも「遅れたこと」を理由にゴチャゴチャ言っていた様に記憶している。
「遅れたのはけしからん」との言い分に対して、当方は、当時は「地政学」の知識はなかったので、アチソン・ラインを題材に、サンフランシスコ平和条約締結の1951年9月8日時点で南西諸島地域を含めた占領終了は防衛問題を考えれば無理筋なのではないのか、とかを言っていた様に思う。
今考えれば、「ヨンニッパ」を語っていた彼等・彼女等は、本質を隠した「議論」を通じた共産主義勢力支援をしていたのであり、同時に、オルグだったのだとわかるのだが、当時の当方は充分に若かったのである。
当方の当時の主観では、論理的思考から出てきた疑問点を素直に聞いていたつもりだったのである。
現在の沖縄の基地問題と言えば、少し前までは、普天間基地の危険性が盛んに喧伝されていたのだが、その危険な普天間基地をなくす為に、代替施設を辺野古につくるとなったら、今度は、辺野古反対ばかりが喧伝され、危険な普天間との話はめっきり聞こえなくなった。
こういう本質を隠した「議論」はいい加減やめていただきたい。
そんなことを思い出した4月28日であった。



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