「改憲しない」という選択の意味5
- 2016/08/17
- 20:22
「改憲しない」という選択の意味5

副題:真面目な改憲議論をしましょう。中身を知った上で可否判断をしましょう。
<目次1>
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-466.html
Ⅰ:最初に(改憲手順・国民投票)
Ⅱ:戦後、一度も国民は現行憲法に積極的な信任をしていない。
(「改憲しない」という選択とは、占領憲法への信任)
Ⅲ:「占領憲法」でも、中身が良ければ信任しても良いのでは?
(現行憲法の中身の酷さを知ってて言っているのですか?)
<目次2>
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-481.html
Ⅲ:「占領憲法」でも、中身が良ければ信任しても良いのでは?
(現行憲法の中身の酷さを知ってて言っているのですか?)
Ⅲ-ⅰ:前文は8月31日の夜にやっている夏休みの宿題(前文の外形的問題)
Ⅲ-ⅱ:前文の内容は詫び状。しかも冤罪の。
<目次3>
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-482.html
Ⅲ-ⅱ:前文の内容は詫び状。しかも冤罪の。(2回目からの続き)
<目次4>
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-483.html
Ⅲ-ⅱ:前文の内容は詫び状。しかも冤罪の。(3回目からの続き)
Ⅳ:こんな中身なのに、素晴らしいとの偽看板
<目次5>(今回)
Ⅴ:最後に
前回は、学校で習う「国民主権 (主権在民)、基本的人権の尊重、平和主義」との、所謂「憲法三原則」が、現行憲法特有のものではなく、ましてや現行憲法の「平和主義」の中身は、「日本は侵略者!その日本から武器を取り上げ、国家主権を制限して、世界平和を日本から守る」とのネジ曲がった「平和主義」であることを見てきた。
1946年時点でのマッカーサーの認識は実に陳腐なものであり、西欧文明諸国に限定された世界の「平和」を乱す日本という非白人国家を叩きのめすことが正義であったのである。
平和裏に植民地支配をしていた自称「文明国」が築いた世界秩序に対して二度と挑戦させないというものであったのだ。
有色人種地域を植民地にして、現地人を牛馬の如く扱うことは、彼にとっては、けして悪ではないという認識こそが、大東亜戦争を戦った日本側認識との決定的差異であったと解される。
さて、そんな日本を悪玉に仕立て上げた「日本国憲法」なのだが、だからこそ維持したがっている勢力がいる。
それは近隣国である。
取り分け、日本という巨大パワーが怖い近隣国である中国、そして歴史知らずの韓国・北朝鮮である。
彼等にとって、主権制限・非武装規定の前文+9条の存在は貴重であり、日本という巨大パワーに手枷・足枷が嵌った状態の維持を望んでいる。
ただ問題としては、例えば中国を例にとれば、ただ単に対峙近隣国の軍事力制限のメリットを受け入れていれば良いのだが、そうではなく、日本の軍事力制限と法的規制と法的未整備状態を突き、自身の覇権・利益に必要以上に利用している点である。
朝鮮半島の両国も同じである。既に半島両国の対日態度は侮りのレベルに至っている。
Ⅴ:最後に
我が国の現行憲法の異常性は、【「改憲しない」という選択の意味】との題名で論評した通り、主権制限・非武装強要との国家として禁治産者扱いをされている。
そして、それは21世紀の現在では否定されている古いパラダイムに基づき負わされた冤罪の詫び状が原因であることを述べた。
繰り返しになるが、「21世紀の現在では否定されている古いパラダイム」について少々述べる。
今や、人間は、肌の色の違いによって区別されることはない。
それが今の当たりの常識である。
ところが、今から僅か数十年前の20世紀前半に於いては、有色人種は人間ではなかったのである。唯一、日本だけが世界の一等国の地位にあり、当時のパラダイムからは異質であった。
1940年代の東南アジア地図をご覧いただきたい。
そこにあるほぼ総てが植民地である。
フィリピンは米国植民地、ベトナム、ラオス、カンボジアは仏印と呼ばれるフランス植民地、インドネシアは蘭印と呼ばれたオランダ植民地、シンガポール、マレーシア、ミャンマー(ビルマ)はイギリス植民地である。
ビルマの西隣、バングラデシュ、インド、オアキスタンもイギリス植民地である。
東南アジアではタイ王国が唯一緩衝国として独立国扱いであった。
当時のパラダイムでは、征服した植民地は各国の正当な所有物であり、その地に住む現地人は本国人とは違う扱いをすることも当然の事であった。
そこには基本的人権など存在せず、GHQが言う「諸国民との協和」の諸国民には植民地現地人は含まれず、「人類普遍の原理」の「人類」でもない。
「人間相互の関係を支配する崇高な理想」の「人間」とは、植民地宗主国の白人のことであり、植民地現地人は含まれていない。
「全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免がれ,平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と称しながら、「全世界」の範囲は狭く、「国民」の範囲も狭い。
綺麗事を述べているが、実態は違っていたのである。
我が国は、第一次世界大戦後の1919年に開かれたパリ講和会議に於いて、国際連盟が創設される際に、「人種差別撤廃」の条項を国際連盟の原則に加えることを提案した。
この提案は過半数の賛同を得たものの、議長を務めた米国大統領ウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と日本の提案を認めなかった。
「これまでは全て多数決だったのに、なぜ今回に限って全会一致を必要とするのか」との日本の質問に対して、ウィルソンは譲らず、結局、人種座別撤廃条項は採用されなかった。
米国大統領ウィルソンがやったことは、人種差別継続宣言なのである。
米国は、戦後から随分経った1960年代になっても自国民である米国籍黒人に対しの人種差別を続けていた。これは歴史的事実である。
今や、有色人種であるバラク・オバマ氏が米国大統領の地位にあり、1919年の我が国人種差別撤廃の理念は世界のパラダイムとなっているが、GHQが憲法草案を書いた1940年代中盤という時代は、まだまだ古いパラダイムで世界が動いていた時代だったのである。
そういうパラダイムに基づき書かれた現行憲法を、21世紀現在の日本人が「改憲しない」との選択で、追認・信任するという行為は、先人達が人種差別と闘った歴史を日本人自身が否定することである。
そんな事態になれば、誰が大喜びをするのかは言わなくてもわかるだろう。
1945年8月15日時点で、米軍勢力下にあったのは、グアム、フィリピン、沖縄であり、ベトナム、インドネシア、シンガポールは日本軍が占領したままである。
戦後、オランダは蘭印・インドネシアを再度植民地化しようとしたが、インドネシア人は8月17日に独立を宣言し、独立戦争を戦った。
同じく、戦後の仏印はベトナム戦争へと続く特殊な形となった。
ベトナムの独立宣言は1945年9月2日である。これは我が国が降服文書に調印した日である。しかしながら、共産主義国としての独立を望まないとのお題目で連合国はベトナムの独立を認めず、ベトナムは白人植民地主義と米ソ冷戦との2つの大きな潮流の中に飲まれ、南北ベトナムの統一による独立は1976年までかかった。
当方の理解では、フランスが撤退する1954年までが白人植民地主義との戦いであり、その後のベトナム戦争は、米国による対共産主義戦争だと解している。
同じ仏印のカンボジアは、共産主義に浸透によるポル・ポト悲劇に至る悲惨な結果となった。
現行憲法が書かれた1945年、1946年時点のパラダイムで見た大東亜戦争は、概ね、次の様なものだ。
<<せっかく平和裏に植民地支配していたのに、有色人種の日本人が植民地アジア人解放などと言って、植民地に侵略してきやがった。これは許せん。平和を乱すけしからん奴等だ。植民地現地人に変な知恵と武力行使方法を教えやがって、せっかくの植民地を手放すことになり、利得がパーになってしまったじゃないか>>
こんな感覚で日本を懲らしめる目的で作られた占領基本法が現行憲法なのである。
そんな冤罪で、基本的国家主権である交戦権を剥奪され、武装解除永続化を憲法典に入れ込まれたままで良いのか?
ましてや、70年前の雲散霧消したパラダイムを、今の日本人が追認するのか?
この様な人類史の視点で考えれば、「改憲しない」という選択肢などあり得ないことだとのごご理解いただけたと思う。
今回対象としたのは前文と9条だけだが、それでも、こんなに多くの致命的問題があるのである。
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<目次1>
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Ⅰ:最初に(改憲手順・国民投票)
Ⅱ:戦後、一度も国民は現行憲法に積極的な信任をしていない。
(「改憲しない」という選択とは、占領憲法への信任)
Ⅲ:「占領憲法」でも、中身が良ければ信任しても良いのでは?
(現行憲法の中身の酷さを知ってて言っているのですか?)
<目次2>
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Ⅲ:「占領憲法」でも、中身が良ければ信任しても良いのでは?
(現行憲法の中身の酷さを知ってて言っているのですか?)
Ⅲ-ⅰ:前文は8月31日の夜にやっている夏休みの宿題(前文の外形的問題)
Ⅲ-ⅱ:前文の内容は詫び状。しかも冤罪の。
<目次3>
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-482.html
Ⅲ-ⅱ:前文の内容は詫び状。しかも冤罪の。(2回目からの続き)
<目次4>
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-483.html
Ⅲ-ⅱ:前文の内容は詫び状。しかも冤罪の。(3回目からの続き)
Ⅳ:こんな中身なのに、素晴らしいとの偽看板
<目次5>(今回)
Ⅴ:最後に
前回は、学校で習う「国民主権 (主権在民)、基本的人権の尊重、平和主義」との、所謂「憲法三原則」が、現行憲法特有のものではなく、ましてや現行憲法の「平和主義」の中身は、「日本は侵略者!その日本から武器を取り上げ、国家主権を制限して、世界平和を日本から守る」とのネジ曲がった「平和主義」であることを見てきた。
1946年時点でのマッカーサーの認識は実に陳腐なものであり、西欧文明諸国に限定された世界の「平和」を乱す日本という非白人国家を叩きのめすことが正義であったのである。
平和裏に植民地支配をしていた自称「文明国」が築いた世界秩序に対して二度と挑戦させないというものであったのだ。
有色人種地域を植民地にして、現地人を牛馬の如く扱うことは、彼にとっては、けして悪ではないという認識こそが、大東亜戦争を戦った日本側認識との決定的差異であったと解される。
さて、そんな日本を悪玉に仕立て上げた「日本国憲法」なのだが、だからこそ維持したがっている勢力がいる。
それは近隣国である。
取り分け、日本という巨大パワーが怖い近隣国である中国、そして歴史知らずの韓国・北朝鮮である。
彼等にとって、主権制限・非武装規定の前文+9条の存在は貴重であり、日本という巨大パワーに手枷・足枷が嵌った状態の維持を望んでいる。
ただ問題としては、例えば中国を例にとれば、ただ単に対峙近隣国の軍事力制限のメリットを受け入れていれば良いのだが、そうではなく、日本の軍事力制限と法的規制と法的未整備状態を突き、自身の覇権・利益に必要以上に利用している点である。
朝鮮半島の両国も同じである。既に半島両国の対日態度は侮りのレベルに至っている。
Ⅴ:最後に
我が国の現行憲法の異常性は、【「改憲しない」という選択の意味】との題名で論評した通り、主権制限・非武装強要との国家として禁治産者扱いをされている。
そして、それは21世紀の現在では否定されている古いパラダイムに基づき負わされた冤罪の詫び状が原因であることを述べた。
繰り返しになるが、「21世紀の現在では否定されている古いパラダイム」について少々述べる。
今や、人間は、肌の色の違いによって区別されることはない。
それが今の当たりの常識である。
ところが、今から僅か数十年前の20世紀前半に於いては、有色人種は人間ではなかったのである。唯一、日本だけが世界の一等国の地位にあり、当時のパラダイムからは異質であった。
1940年代の東南アジア地図をご覧いただきたい。
そこにあるほぼ総てが植民地である。
フィリピンは米国植民地、ベトナム、ラオス、カンボジアは仏印と呼ばれるフランス植民地、インドネシアは蘭印と呼ばれたオランダ植民地、シンガポール、マレーシア、ミャンマー(ビルマ)はイギリス植民地である。
ビルマの西隣、バングラデシュ、インド、オアキスタンもイギリス植民地である。
東南アジアではタイ王国が唯一緩衝国として独立国扱いであった。
当時のパラダイムでは、征服した植民地は各国の正当な所有物であり、その地に住む現地人は本国人とは違う扱いをすることも当然の事であった。
そこには基本的人権など存在せず、GHQが言う「諸国民との協和」の諸国民には植民地現地人は含まれず、「人類普遍の原理」の「人類」でもない。
「人間相互の関係を支配する崇高な理想」の「人間」とは、植民地宗主国の白人のことであり、植民地現地人は含まれていない。
「全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免がれ,平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と称しながら、「全世界」の範囲は狭く、「国民」の範囲も狭い。
綺麗事を述べているが、実態は違っていたのである。
我が国は、第一次世界大戦後の1919年に開かれたパリ講和会議に於いて、国際連盟が創設される際に、「人種差別撤廃」の条項を国際連盟の原則に加えることを提案した。
この提案は過半数の賛同を得たものの、議長を務めた米国大統領ウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と日本の提案を認めなかった。
「これまでは全て多数決だったのに、なぜ今回に限って全会一致を必要とするのか」との日本の質問に対して、ウィルソンは譲らず、結局、人種座別撤廃条項は採用されなかった。
米国大統領ウィルソンがやったことは、人種差別継続宣言なのである。
米国は、戦後から随分経った1960年代になっても自国民である米国籍黒人に対しの人種差別を続けていた。これは歴史的事実である。
今や、有色人種であるバラク・オバマ氏が米国大統領の地位にあり、1919年の我が国人種差別撤廃の理念は世界のパラダイムとなっているが、GHQが憲法草案を書いた1940年代中盤という時代は、まだまだ古いパラダイムで世界が動いていた時代だったのである。
そういうパラダイムに基づき書かれた現行憲法を、21世紀現在の日本人が「改憲しない」との選択で、追認・信任するという行為は、先人達が人種差別と闘った歴史を日本人自身が否定することである。
そんな事態になれば、誰が大喜びをするのかは言わなくてもわかるだろう。
1945年8月15日時点で、米軍勢力下にあったのは、グアム、フィリピン、沖縄であり、ベトナム、インドネシア、シンガポールは日本軍が占領したままである。
戦後、オランダは蘭印・インドネシアを再度植民地化しようとしたが、インドネシア人は8月17日に独立を宣言し、独立戦争を戦った。
同じく、戦後の仏印はベトナム戦争へと続く特殊な形となった。
ベトナムの独立宣言は1945年9月2日である。これは我が国が降服文書に調印した日である。しかしながら、共産主義国としての独立を望まないとのお題目で連合国はベトナムの独立を認めず、ベトナムは白人植民地主義と米ソ冷戦との2つの大きな潮流の中に飲まれ、南北ベトナムの統一による独立は1976年までかかった。
当方の理解では、フランスが撤退する1954年までが白人植民地主義との戦いであり、その後のベトナム戦争は、米国による対共産主義戦争だと解している。
同じ仏印のカンボジアは、共産主義に浸透によるポル・ポト悲劇に至る悲惨な結果となった。
現行憲法が書かれた1945年、1946年時点のパラダイムで見た大東亜戦争は、概ね、次の様なものだ。
<<せっかく平和裏に植民地支配していたのに、有色人種の日本人が植民地アジア人解放などと言って、植民地に侵略してきやがった。これは許せん。平和を乱すけしからん奴等だ。植民地現地人に変な知恵と武力行使方法を教えやがって、せっかくの植民地を手放すことになり、利得がパーになってしまったじゃないか>>
こんな感覚で日本を懲らしめる目的で作られた占領基本法が現行憲法なのである。
そんな冤罪で、基本的国家主権である交戦権を剥奪され、武装解除永続化を憲法典に入れ込まれたままで良いのか?
ましてや、70年前の雲散霧消したパラダイムを、今の日本人が追認するのか?
この様な人類史の視点で考えれば、「改憲しない」という選択肢などあり得ないことだとのごご理解いただけたと思う。
今回対象としたのは前文と9条だけだが、それでも、こんなに多くの致命的問題があるのである。



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