【コラム】自家撞着する「憲法学者」
- 2015/10/04
- 01:19
【コラム】自家撞着する「憲法学者」

先日可決された安保法制だが、その審議の過程で参考人証言等で登場した「憲法学者」の安保法制「違憲」論が自家撞着したものだとの論評は、本ブログでは【コラム】にて何回か取り上げ、論評している。
自家撞着指摘の論評概要は、以下の通り、実に単純な話である。
1)憲法条文至上主義者:自衛隊は法文上違憲、安保法制も違憲
- - 法文論理的には整合・現実的には夢想
2)実務解釈集積論:自衛隊は最高裁判例から合憲、同じ手続き経る安保法制も合憲
- - 法理整合・現実的にも整合
3)某憲法学者:自衛隊は合憲、安保法制は違憲
- - 論理的説明なし。上記1)、2)の何れの立場でも整合していない自家撞着
上記の1)と2)の違いは「物差し」の違いである。
1)は憲法の条文を物差しにして考えるもので、当方は「憲法条文至上主義者」と呼んでいる。2)は現実の政治の中で国会での審議・答弁を通じた「解釈」、最高裁判例即ち司法に置ける判断の集積を経て、現実の政治で妥当と考えられる解釈運用を物差しにして考えるものである。
一方、3)の自衛隊合憲・安保法制違憲とのチグハグは上記1)、2)の何れの「物差し」にても整合性なく、第三の物差し(考え方)の提示が必要なのだが、その論理的説明はないので、当方はそんなことを言っている「憲法学者」は自家撞着していると幾度も指摘してきたのである。
この様な指摘は、当ブログの過去記事に複数あるので、興味があれば、ご一読いただき度い。
そんな経緯があるのだが、今般、面白い記事をネットで発見したので、紹介したい。
現代ビジネス-2015年09月25日付 長谷川幸洋
反安保の急先鋒となったあの憲法学者の「いかがわしさ」を明かそう ~わずか2年前は「解釈改憲論者」。だから彼らを信用できない
< http://gendai.ismedia.jp/articles/-/45474 >
ここで言われている「あの憲法学者」とは本ブログで再三取り上げている「小林「変節」」こと小林節慶応大学名誉教授である。
上記した3)の自家撞着をしていた「憲法学者」その人である。
上記URLにある同名誉教授の記事を以下引用する。
<引用開始>(2006年11月11日産経新聞「正論」欄より)
「法令解釈というものは、解釈権を有する者(この場合は政府)が、その責任において、条文の文言とその立法趣旨の許容限度内で行う『選択』である以上、時代状況の変化の中で、説得力のある理由が明示される限り、変更されてよいものであるし、これまでもそうであった」
「だから世界史の現実と東アジアの情勢の中で、わが国の存続と安全にとって日米同盟の強化が不可欠である、と政府が考えるならば、その責任において、上述の2例のような場合に、仮にわが国に対する直接的な攻撃がなかったとしても、それをわが国が座視すれば日米同盟が損なわれることが明白である以上、仮に形式上は集団的自衛活動になろうとも、わが国の存続に『不可欠』な軍事行動は、それを許容する憲法9条に違反するものではあるまい」
ここで「上述の2例」とは「公海上でわが国の自衛艦と並走している米国の艦艇が他国から攻撃された場合に、自衛艦が米艦を支援したら、それは集団的自衛権になってしまう」というケースと、「わが国の上空を飛んで米国に向かう他国のミサイルをわが国が撃ち落としたとしたら、それも集団的自衛になってしまう」というケースだ。
<引用終わり>
引用紹介した2006年11月時点での小林節の論の内容は、最高裁判例の法理に基づく真っ当な内容であり、論理的整合性が確保されている。
この内容は、当方が前述した事例では2)に該当するものだ。
ところが、9年後の今年2015年、安保法制審議の中で参考人として証言した小林節は2)の立場を捨て、非論理的な3)の立場で証言した。
何か別の「物差し」を採用したのかどうかはわからないが変節している。
新しい「物差し」がなんであるのかの新論理の提示があれば、その内容を検証するのだが、その様な論理の提示はなく、ただただ「安保法制は違憲」だと言っていたのがこの「憲法学者」である。
更に、引用先ブログでは、次の様な記載があった。
これも同ブログから引用する。
<引用開始>(2013年7月26日ダイヤモンド・オンラインインタビュー記事)
「集団的自衛権の考え方については、どうですか」との質問に教授はこう答えた。
「先にも述べた通り、政府は自国の自衛権の存在を認めています。そうなると、自衛権を持つ独立主権国家が『個別的自衛権』と『集団的自衛権』の両方を持っていると考えるのは、国際法の常識です」
「政府は憲法の立法趣旨に照らして、集団的自衛権を自らの解釈で自制していますが、このままだと日本は、他国に攻められたときに自分たちだけで自衛しなくてはいけません。
しかし、『襲われたら同盟国が報復にゆく』というメッセージを打ち出せる集団的自衛権は、他国の侵略を牽制する意味においてもメリットがあります。だから、改めて『日本は集団的自衛権を持っている』と解釈を変更するべきでしょう」
<引用終わり>
小林節の論説はここでもまとも。実に論理一貫している。
内容は、当方が前述した事例では2)に該当するものであり、2006年11月の論説とも一貫している。論理的整合性は保たれており、まともなことを言っていのである。
要するに、小林節は2年前の2013年7月時点までは、最高裁判例等をちゃんと認識しており、実務解釈集積論者であり、憲法9条に対する理解では、まともな見識を持っていたと推定される。
しかしながら、2015年の初夏からの小林変節の迷走・自家撞着っぷりは酷いものだった。
そのことは、その都度、当ブログで指摘している通りである。
確認出来る範囲では2年前まではまともな論評をしていた「憲法学者」が、何故、変節したのだろう?
理由はいろいろと推理できるが、それは推理であり明確な証拠がある訳ではないので語ることはしない。
ただ、明確に言えることは「憲法学者」の「変節」は、学問的根拠があって2)から3)に変わった訳ではないということだ。
もしも、新論理に基づき意見を変えたのなら、その核心の新論理の開示が必ずあるはずなのに、新論理の開示は今に至るも一切存在しない。
要するに、学問的見地以外の理由で論理破綻・自家撞着に他ならないことを言ってしまう「憲法学者」なのである。
これは致命的である。
憲法学者とは、憲法について学問的見地に立脚した発言をするものだと期待される存在であるのだが、そうなっていない。
実は、事例に出した小林節だけが特殊なのではない。
学問的見地よりも、政治的目的や自己保身を立脚点にした「憲法論」が氾濫していることに気がついて欲しい。
そして、だからこそ「憲法学者」の言うことを鵜呑みにしないで欲しい。
本ブログは、理由を提示しながら「憲法学者が言う「定説」や「御高説」」に異議を唱えているのは、自分で考えることが一番大事だと考えているからである。
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先日可決された安保法制だが、その審議の過程で参考人証言等で登場した「憲法学者」の安保法制「違憲」論が自家撞着したものだとの論評は、本ブログでは【コラム】にて何回か取り上げ、論評している。
自家撞着指摘の論評概要は、以下の通り、実に単純な話である。
1)憲法条文至上主義者:自衛隊は法文上違憲、安保法制も違憲
- - 法文論理的には整合・現実的には夢想
2)実務解釈集積論:自衛隊は最高裁判例から合憲、同じ手続き経る安保法制も合憲
- - 法理整合・現実的にも整合
3)某憲法学者:自衛隊は合憲、安保法制は違憲
- - 論理的説明なし。上記1)、2)の何れの立場でも整合していない自家撞着
上記の1)と2)の違いは「物差し」の違いである。
1)は憲法の条文を物差しにして考えるもので、当方は「憲法条文至上主義者」と呼んでいる。2)は現実の政治の中で国会での審議・答弁を通じた「解釈」、最高裁判例即ち司法に置ける判断の集積を経て、現実の政治で妥当と考えられる解釈運用を物差しにして考えるものである。
一方、3)の自衛隊合憲・安保法制違憲とのチグハグは上記1)、2)の何れの「物差し」にても整合性なく、第三の物差し(考え方)の提示が必要なのだが、その論理的説明はないので、当方はそんなことを言っている「憲法学者」は自家撞着していると幾度も指摘してきたのである。
この様な指摘は、当ブログの過去記事に複数あるので、興味があれば、ご一読いただき度い。
そんな経緯があるのだが、今般、面白い記事をネットで発見したので、紹介したい。
現代ビジネス-2015年09月25日付 長谷川幸洋
反安保の急先鋒となったあの憲法学者の「いかがわしさ」を明かそう ~わずか2年前は「解釈改憲論者」。だから彼らを信用できない
< http://gendai.ismedia.jp/articles/-/45474 >
ここで言われている「あの憲法学者」とは本ブログで再三取り上げている「小林「変節」」こと小林節慶応大学名誉教授である。
上記した3)の自家撞着をしていた「憲法学者」その人である。
上記URLにある同名誉教授の記事を以下引用する。
<引用開始>(2006年11月11日産経新聞「正論」欄より)
「法令解釈というものは、解釈権を有する者(この場合は政府)が、その責任において、条文の文言とその立法趣旨の許容限度内で行う『選択』である以上、時代状況の変化の中で、説得力のある理由が明示される限り、変更されてよいものであるし、これまでもそうであった」
「だから世界史の現実と東アジアの情勢の中で、わが国の存続と安全にとって日米同盟の強化が不可欠である、と政府が考えるならば、その責任において、上述の2例のような場合に、仮にわが国に対する直接的な攻撃がなかったとしても、それをわが国が座視すれば日米同盟が損なわれることが明白である以上、仮に形式上は集団的自衛活動になろうとも、わが国の存続に『不可欠』な軍事行動は、それを許容する憲法9条に違反するものではあるまい」
ここで「上述の2例」とは「公海上でわが国の自衛艦と並走している米国の艦艇が他国から攻撃された場合に、自衛艦が米艦を支援したら、それは集団的自衛権になってしまう」というケースと、「わが国の上空を飛んで米国に向かう他国のミサイルをわが国が撃ち落としたとしたら、それも集団的自衛になってしまう」というケースだ。
<引用終わり>
引用紹介した2006年11月時点での小林節の論の内容は、最高裁判例の法理に基づく真っ当な内容であり、論理的整合性が確保されている。
この内容は、当方が前述した事例では2)に該当するものだ。
ところが、9年後の今年2015年、安保法制審議の中で参考人として証言した小林節は2)の立場を捨て、非論理的な3)の立場で証言した。
何か別の「物差し」を採用したのかどうかはわからないが変節している。
新しい「物差し」がなんであるのかの新論理の提示があれば、その内容を検証するのだが、その様な論理の提示はなく、ただただ「安保法制は違憲」だと言っていたのがこの「憲法学者」である。
更に、引用先ブログでは、次の様な記載があった。
これも同ブログから引用する。
<引用開始>(2013年7月26日ダイヤモンド・オンラインインタビュー記事)
「集団的自衛権の考え方については、どうですか」との質問に教授はこう答えた。
「先にも述べた通り、政府は自国の自衛権の存在を認めています。そうなると、自衛権を持つ独立主権国家が『個別的自衛権』と『集団的自衛権』の両方を持っていると考えるのは、国際法の常識です」
「政府は憲法の立法趣旨に照らして、集団的自衛権を自らの解釈で自制していますが、このままだと日本は、他国に攻められたときに自分たちだけで自衛しなくてはいけません。
しかし、『襲われたら同盟国が報復にゆく』というメッセージを打ち出せる集団的自衛権は、他国の侵略を牽制する意味においてもメリットがあります。だから、改めて『日本は集団的自衛権を持っている』と解釈を変更するべきでしょう」
<引用終わり>
小林節の論説はここでもまとも。実に論理一貫している。
内容は、当方が前述した事例では2)に該当するものであり、2006年11月の論説とも一貫している。論理的整合性は保たれており、まともなことを言っていのである。
要するに、小林節は2年前の2013年7月時点までは、最高裁判例等をちゃんと認識しており、実務解釈集積論者であり、憲法9条に対する理解では、まともな見識を持っていたと推定される。
しかしながら、2015年の初夏からの小林変節の迷走・自家撞着っぷりは酷いものだった。
そのことは、その都度、当ブログで指摘している通りである。
確認出来る範囲では2年前まではまともな論評をしていた「憲法学者」が、何故、変節したのだろう?
理由はいろいろと推理できるが、それは推理であり明確な証拠がある訳ではないので語ることはしない。
ただ、明確に言えることは「憲法学者」の「変節」は、学問的根拠があって2)から3)に変わった訳ではないということだ。
もしも、新論理に基づき意見を変えたのなら、その核心の新論理の開示が必ずあるはずなのに、新論理の開示は今に至るも一切存在しない。
要するに、学問的見地以外の理由で論理破綻・自家撞着に他ならないことを言ってしまう「憲法学者」なのである。
これは致命的である。
憲法学者とは、憲法について学問的見地に立脚した発言をするものだと期待される存在であるのだが、そうなっていない。
実は、事例に出した小林節だけが特殊なのではない。
学問的見地よりも、政治的目的や自己保身を立脚点にした「憲法論」が氾濫していることに気がついて欲しい。
そして、だからこそ「憲法学者」の言うことを鵜呑みにしないで欲しい。
本ブログは、理由を提示しながら「憲法学者が言う「定説」や「御高説」」に異議を唱えているのは、自分で考えることが一番大事だと考えているからである。



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