【コラム】ゼロ戦(十二試艦戦)の初陣
- 2015/09/14
- 00:28
【コラム】ゼロ戦(十二試艦戦)の初陣

最近では百田尚樹氏の「永遠の0」や宮崎アニメ「風立ちぬ」で再び脚光を浴びているゼロ戦=海軍零式艦上戦闘機だが、当方が子供の頃は「0戦はやと」とか「ゼロ戦レッド」等のマンガでお馴染みの戦闘機であった。
マンガでは他に「加藤隼戦闘隊」とか「紫電改の鷹」等があり、これら大東亜戦争当時の戦争物というジャンルは「鉄腕アトム」や「鉄人28号」の様なSFロボット物と同様の人気があったジャンルである。
このジャンルに類似するマンガには、他には自衛隊潜水艦をモチーフにしたSFマンガ「サブマリン707」や、その後続マンガで潜水艦をより未来的にした「青の6号」などがあった。
宮崎アニメでは、零戦がもっとも輝いた時代がスッポリと抜け落ちており、時代が2000馬力級エンジンの時代へと科学技術が発展していたのに、我が国工業力の限界で次世代機への転換が進まず、最後まで非力なエンジンで戦った零戦の悲壮な姿しか描いていない。
しかし、その描かれていない時代、取り分け零戦の初陣こそが大東亜戦争に至る昭和史前半のキーポイントでもあり、もっと注目すべき時代である。
零戦がもっとも輝いた時代の最初期、何故、零戦が重慶なる奥地にいたのかを紹介していきたい。
零戦の制式名は零式艦上戦闘機だが、この「零式」とは、皇紀2600年の下二桁の00からきている。零戦の前の制式艦上戦闘機は「96艦戦」であり、この96とは皇紀2596年(昭和11年・西暦1936年)から付された番号である。要するに零戦とは皇紀2600年(昭和15年・西暦1940年)に制式装備となった艦上戦闘機=空母搭載戦闘機という意味である。
戦後の陸上自衛隊の国産戦車には、61式、74式、90式、10式があるが、これらの数字は制式化された年の西暦の下二桁から付されている。現在、西暦が世界のデファクト・スタンダード(結果的世界標準)になっている為に西暦を採用しているのだろう。
西暦とは、西洋の暦である。今年2015年とは「キリスト生誕の年から2015年目」という意味であり西欧文明に基づく年数である。
戦闘機や戦車は、制式化された年にいきなり製品として登場する訳ではない。制式化前には試作品・プロトタイプでの試行錯誤がある。試作品での不具合改善、量産化合理性に基づく改良等がある。零戦の場合は、昭和12年試作の十二試艦戦として進空している。
零戦の実践デビューは1940年(昭和15年)9月13日のことである。
まだ零式艦上戦闘機として制式化直前の十二試艦戦が同年7月に中国にわたり、出撃するも会敵なかったが、1940年9月13日重慶上空での蒋介石重慶政府軍と空中戦が行われ、これが零戦の初陣である。
中国の重慶を地図で確認していただきたい。
重慶は、南京の西方約1400Kmと随分奥地にあることがわかるだろう。
南京・上海間が約300Kmであることに比べ随分と遠い。東京・福岡間の約1100Kmよりもっと遠い。
そんな奥地に、何故、零戦がいたのかというと、そこに蒋介石が逃げたからである。
当時、支那事変で我が国と交戦状態にあった「中華民国政府」は分裂し、穏健派の汪兆銘は南京で政府を継いだ一方で蒋介石は重慶まで逃げて「重慶政府」を称していた。
汪兆銘との和睦はなったのだが、蒋介石は奥地からちょっかいを出し続けていた。
重慶は地図で見る通り、ものすごい奥地であり、戦闘継続する武器・弾薬を製造する工業施設などなく、日本を講和する以外に選択肢はなく、中華民国は汪兆銘の南京政府が正統政府としてのこり、支那の地の治安は回復する見込みだった。
しかしながら、蒋介石は妻の宋美齢の美貌と達者な英語で米英をたらしこみ、莫大な援助を英米から受け取り、抵抗を続け、支那の地の戦乱を引き伸ばした。
尚、宋美齢の姉の宋慶齢は孫文の妻である。
重慶の蒋介石への援助は、米英だけではなく、ソ連、フランスからも行われた。
後にフランスは、ドイツに占領されビシー政権となってからは援助を中止した(ことになっている)。蒋介石への援助は「援蒋ルート」と呼ばれる道路・鉄道の開拓で実施され、膨大な量の武器弾薬が重慶に運び込まれた。
援蒋ルートは、イギリス植民地のインド・ビルマルート、仏印ベトナムのルート等があり、米国は陸海軍航空隊パイロットを「退役義勇兵=民間人」と偽装して、シェンノートを長とする航空部隊「フライングタイガース」を機体とともに送り込んでいた。ソ連は蒋介石軍に戦闘機等を供給していた。
支那事変当事国の日支に対して、公式的には中立国であるはすの米英のやっていることは、明確な中立国義務違反であり、実態は、米英による対日戦争行為であった。
零戦が重慶上空にいたのは、蒋介石軍に対する戦略爆撃の為に出撃する爆撃機の護衛の為であった。漢口(現在の武漢)から重慶への戦略爆撃に対して蒋介石軍はソ連製戦闘機で迎撃してくるので、それらソ連機からの護衛が零戦の主任務である。
零戦の戦史として、初陣の重慶上空でのソ連戦闘機との空中戦を知ることになる人は多いだろうが、何故重慶なのか、何故ソ連製戦闘機なのか、をもを知っていただきたい。
重慶に逃げた蒋介石を米英が影で支援し、蒋介石のちょっかいで支那の地の平安は安定しなかった。蒋介石中華民国が支那の地を統治する国家なら、治安維持する責任があるのだが、蒋介石はその責任を果たさなかった。
我が国は、蒋介石を南京から駆逐し治安回復し、汪兆銘・国民党南京政府との和睦で南京地域の和平を回復したのであった。
「中華民国」との和平は1939年から密かに始まっており、蒋介石欠席のうちに、汪兆銘と和平に関する会談を日本は開いている。その際の日本側代表は板垣征四郎である。
板垣征四郎は、米英中ソを「戦勝国」とする中で行われた東京裁判で「A級戦犯」として処刑されてしまう。
支那の地の治安・和平に努力した板垣が支那の地を戦乱に陥らせ和平を拒んでいた蒋介石・中華民国に「裁判」で追い込まれたのは、さぞ無念であったろう。
重慶に逃げた蒋介石が意地を捨て、あきらめ講和に至れば、歴史は違ったものになっていた可能性があるが、実際は、自称「中立国」の米英及び仏ソが援蒋ルートで、実質的戦争を我が国に仕掛けていたのである。
この米英の卑怯なる振る舞いは、やがて大東亜戦争へとつながるのである。
大東亜戦争の開戦の詔勅のうち、約半分を費やし、このことが明示されている事実を各位確認いただき度い。
あの戦争は真珠湾からはじまったのではない。また、サヨク学者が言う「15年戦争」なんかでもない。支那の地では国家が存在せず、軍閥が、その地の民に安寧を保障することもなく、馬賊・匪賊の振る舞いをしており、支那の地の治安回復が、そもそもの我が国の願いだったことを確認していただきたい。
<開戦の詔勅:当方の勝手に現代語訳より抜粋>
中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに事を構え東亜の平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。
さいわいに国民政府は南京政府に新たに生まれ変わり帝国はこの政府(汪兆銘)と善隣のよしみを結び共に提携するようになったが、重慶に残存する政権(蒋介石)は、米英の庇護を当てにして兄弟(汪兆銘・南京政府)といまだに争うことをあらためていない。
米英両国は、残存政権(蒋介石)を支援し、東亜の混乱を助長し、平和の美名を用いて東洋制覇(アジアの制覇)との野望をたくましくしている。そればかりか(米英は)他の国々を誘引し、我が国の周辺で軍備を増強して我々に挑戦し、さらに我が国の平和的な通商にあらゆる妨害を加え、ついに経済断交(経済戦争)を行い、我が国の存立に重大な脅威を加えている。
私は政府に事態を平和裡解決させようとし、長く隠忍してきたが、彼等(米英)は少しも互いに譲り合うとの精神がなく、いたずらに時局の解決を遅延させ、その間には、ますます経済上、軍事上の脅威を増大し、それによって我が国を屈服させようとしている。
この様な事態がこのまま推移すると、東亜の安定に関して我が国が長年費やしてきた努力はことごとく水泡に帰し、我が国の存立もまさに危機に瀕することとなる。
こと既にここに至っては、我が国は自存自衛の為に蹶然と起ち、一切の障害を破砕するほかはないのである。
<引用終わり>
詭道の人物蒋介石は、昭和19年との我が国戦況不利な時期でも、支那の地での大陸打通作戦でボロ負けしている。米軍の迂回飛び石作戦で我が国疲弊し降服するとチャッカリ「戦勝国」の地位を蒋介石はかすめ取るも、戦後、援蒋ルートが途絶えると蒋介石以上に逃げ回っていた共匪八路軍毛沢東にあっさりと敗北し、台湾に逃げ込んでいる。
台湾では、現地台湾人(内省人)を蒋介石軍(外省人)は白色テロルで虐殺している。
日本軍に対して常時負け続けた蒋介石を、戦後追い出しただけの毛沢東・中国共産党が、先日「抗日戦勝70周年」を祝うとの時空を超えた不思議な主張をしていた。
この歪みと捻じれが溢れる中共が言う「歴史」が人類史の「正史」となることを当方は許容できない。本年年頭に天皇陛下の新年にあたってのご感想で「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだ」とのお言葉をあらためて心に刻んでいる。
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最近では百田尚樹氏の「永遠の0」や宮崎アニメ「風立ちぬ」で再び脚光を浴びているゼロ戦=海軍零式艦上戦闘機だが、当方が子供の頃は「0戦はやと」とか「ゼロ戦レッド」等のマンガでお馴染みの戦闘機であった。
マンガでは他に「加藤隼戦闘隊」とか「紫電改の鷹」等があり、これら大東亜戦争当時の戦争物というジャンルは「鉄腕アトム」や「鉄人28号」の様なSFロボット物と同様の人気があったジャンルである。
このジャンルに類似するマンガには、他には自衛隊潜水艦をモチーフにしたSFマンガ「サブマリン707」や、その後続マンガで潜水艦をより未来的にした「青の6号」などがあった。
宮崎アニメでは、零戦がもっとも輝いた時代がスッポリと抜け落ちており、時代が2000馬力級エンジンの時代へと科学技術が発展していたのに、我が国工業力の限界で次世代機への転換が進まず、最後まで非力なエンジンで戦った零戦の悲壮な姿しか描いていない。
しかし、その描かれていない時代、取り分け零戦の初陣こそが大東亜戦争に至る昭和史前半のキーポイントでもあり、もっと注目すべき時代である。
零戦がもっとも輝いた時代の最初期、何故、零戦が重慶なる奥地にいたのかを紹介していきたい。
零戦の制式名は零式艦上戦闘機だが、この「零式」とは、皇紀2600年の下二桁の00からきている。零戦の前の制式艦上戦闘機は「96艦戦」であり、この96とは皇紀2596年(昭和11年・西暦1936年)から付された番号である。要するに零戦とは皇紀2600年(昭和15年・西暦1940年)に制式装備となった艦上戦闘機=空母搭載戦闘機という意味である。
戦後の陸上自衛隊の国産戦車には、61式、74式、90式、10式があるが、これらの数字は制式化された年の西暦の下二桁から付されている。現在、西暦が世界のデファクト・スタンダード(結果的世界標準)になっている為に西暦を採用しているのだろう。
西暦とは、西洋の暦である。今年2015年とは「キリスト生誕の年から2015年目」という意味であり西欧文明に基づく年数である。
戦闘機や戦車は、制式化された年にいきなり製品として登場する訳ではない。制式化前には試作品・プロトタイプでの試行錯誤がある。試作品での不具合改善、量産化合理性に基づく改良等がある。零戦の場合は、昭和12年試作の十二試艦戦として進空している。
零戦の実践デビューは1940年(昭和15年)9月13日のことである。
まだ零式艦上戦闘機として制式化直前の十二試艦戦が同年7月に中国にわたり、出撃するも会敵なかったが、1940年9月13日重慶上空での蒋介石重慶政府軍と空中戦が行われ、これが零戦の初陣である。
中国の重慶を地図で確認していただきたい。
重慶は、南京の西方約1400Kmと随分奥地にあることがわかるだろう。
南京・上海間が約300Kmであることに比べ随分と遠い。東京・福岡間の約1100Kmよりもっと遠い。
そんな奥地に、何故、零戦がいたのかというと、そこに蒋介石が逃げたからである。
当時、支那事変で我が国と交戦状態にあった「中華民国政府」は分裂し、穏健派の汪兆銘は南京で政府を継いだ一方で蒋介石は重慶まで逃げて「重慶政府」を称していた。
汪兆銘との和睦はなったのだが、蒋介石は奥地からちょっかいを出し続けていた。
重慶は地図で見る通り、ものすごい奥地であり、戦闘継続する武器・弾薬を製造する工業施設などなく、日本を講和する以外に選択肢はなく、中華民国は汪兆銘の南京政府が正統政府としてのこり、支那の地の治安は回復する見込みだった。
しかしながら、蒋介石は妻の宋美齢の美貌と達者な英語で米英をたらしこみ、莫大な援助を英米から受け取り、抵抗を続け、支那の地の戦乱を引き伸ばした。
尚、宋美齢の姉の宋慶齢は孫文の妻である。
重慶の蒋介石への援助は、米英だけではなく、ソ連、フランスからも行われた。
後にフランスは、ドイツに占領されビシー政権となってからは援助を中止した(ことになっている)。蒋介石への援助は「援蒋ルート」と呼ばれる道路・鉄道の開拓で実施され、膨大な量の武器弾薬が重慶に運び込まれた。
援蒋ルートは、イギリス植民地のインド・ビルマルート、仏印ベトナムのルート等があり、米国は陸海軍航空隊パイロットを「退役義勇兵=民間人」と偽装して、シェンノートを長とする航空部隊「フライングタイガース」を機体とともに送り込んでいた。ソ連は蒋介石軍に戦闘機等を供給していた。
支那事変当事国の日支に対して、公式的には中立国であるはすの米英のやっていることは、明確な中立国義務違反であり、実態は、米英による対日戦争行為であった。
零戦が重慶上空にいたのは、蒋介石軍に対する戦略爆撃の為に出撃する爆撃機の護衛の為であった。漢口(現在の武漢)から重慶への戦略爆撃に対して蒋介石軍はソ連製戦闘機で迎撃してくるので、それらソ連機からの護衛が零戦の主任務である。
零戦の戦史として、初陣の重慶上空でのソ連戦闘機との空中戦を知ることになる人は多いだろうが、何故重慶なのか、何故ソ連製戦闘機なのか、をもを知っていただきたい。
重慶に逃げた蒋介石を米英が影で支援し、蒋介石のちょっかいで支那の地の平安は安定しなかった。蒋介石中華民国が支那の地を統治する国家なら、治安維持する責任があるのだが、蒋介石はその責任を果たさなかった。
我が国は、蒋介石を南京から駆逐し治安回復し、汪兆銘・国民党南京政府との和睦で南京地域の和平を回復したのであった。
「中華民国」との和平は1939年から密かに始まっており、蒋介石欠席のうちに、汪兆銘と和平に関する会談を日本は開いている。その際の日本側代表は板垣征四郎である。
板垣征四郎は、米英中ソを「戦勝国」とする中で行われた東京裁判で「A級戦犯」として処刑されてしまう。
支那の地の治安・和平に努力した板垣が支那の地を戦乱に陥らせ和平を拒んでいた蒋介石・中華民国に「裁判」で追い込まれたのは、さぞ無念であったろう。
重慶に逃げた蒋介石が意地を捨て、あきらめ講和に至れば、歴史は違ったものになっていた可能性があるが、実際は、自称「中立国」の米英及び仏ソが援蒋ルートで、実質的戦争を我が国に仕掛けていたのである。
この米英の卑怯なる振る舞いは、やがて大東亜戦争へとつながるのである。
大東亜戦争の開戦の詔勅のうち、約半分を費やし、このことが明示されている事実を各位確認いただき度い。
あの戦争は真珠湾からはじまったのではない。また、サヨク学者が言う「15年戦争」なんかでもない。支那の地では国家が存在せず、軍閥が、その地の民に安寧を保障することもなく、馬賊・匪賊の振る舞いをしており、支那の地の治安回復が、そもそもの我が国の願いだったことを確認していただきたい。
<開戦の詔勅:当方の勝手に現代語訳より抜粋>
中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに事を構え東亜の平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。
さいわいに国民政府は南京政府に新たに生まれ変わり帝国はこの政府(汪兆銘)と善隣のよしみを結び共に提携するようになったが、重慶に残存する政権(蒋介石)は、米英の庇護を当てにして兄弟(汪兆銘・南京政府)といまだに争うことをあらためていない。
米英両国は、残存政権(蒋介石)を支援し、東亜の混乱を助長し、平和の美名を用いて東洋制覇(アジアの制覇)との野望をたくましくしている。そればかりか(米英は)他の国々を誘引し、我が国の周辺で軍備を増強して我々に挑戦し、さらに我が国の平和的な通商にあらゆる妨害を加え、ついに経済断交(経済戦争)を行い、我が国の存立に重大な脅威を加えている。
私は政府に事態を平和裡解決させようとし、長く隠忍してきたが、彼等(米英)は少しも互いに譲り合うとの精神がなく、いたずらに時局の解決を遅延させ、その間には、ますます経済上、軍事上の脅威を増大し、それによって我が国を屈服させようとしている。
この様な事態がこのまま推移すると、東亜の安定に関して我が国が長年費やしてきた努力はことごとく水泡に帰し、我が国の存立もまさに危機に瀕することとなる。
こと既にここに至っては、我が国は自存自衛の為に蹶然と起ち、一切の障害を破砕するほかはないのである。
<引用終わり>
詭道の人物蒋介石は、昭和19年との我が国戦況不利な時期でも、支那の地での大陸打通作戦でボロ負けしている。米軍の迂回飛び石作戦で我が国疲弊し降服するとチャッカリ「戦勝国」の地位を蒋介石はかすめ取るも、戦後、援蒋ルートが途絶えると蒋介石以上に逃げ回っていた共匪八路軍毛沢東にあっさりと敗北し、台湾に逃げ込んでいる。
台湾では、現地台湾人(内省人)を蒋介石軍(外省人)は白色テロルで虐殺している。
日本軍に対して常時負け続けた蒋介石を、戦後追い出しただけの毛沢東・中国共産党が、先日「抗日戦勝70周年」を祝うとの時空を超えた不思議な主張をしていた。
この歪みと捻じれが溢れる中共が言う「歴史」が人類史の「正史」となることを当方は許容できない。本年年頭に天皇陛下の新年にあたってのご感想で「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだ」とのお言葉をあらためて心に刻んでいる。



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