朝日新聞社説の連日の愚劣・靖国参拝を問題だとするアンシャンレジューム
- 2022/08/17
- 22:49
朝日新聞社説の連日の愚劣・靖国参拝を問題だとするアンシャンレジューム
副題:朝日社説の連日の愚劣に対して想起される語句は、やはり「知の退廃」である。
総理・閣僚の靖国神社参拝をあたかも「問題」であるかの様な風潮を作ったのは朝日新聞である。朝日が騒ぎ、それを中韓特アが取り上げて騒ぎ、朝日が「アジア諸国が参拝に反対している」と「報道」する山彦作戦の繰り返しで「問題」を大きくしたものである。
1970年代には靖国神社を「軍国主義の象徴」だとする新左翼の言説が既にあり、新左翼界隈では問題視していたことは、自分自身が大学生の頃の経験から知っているが、それが社会問題とはなっていなかった。
総理・閣僚の靖国神社参拝を特定アジア諸国との「国際問題」にまで発展させる切っ掛けとなったのは、あの中曽根の1985年の「公人の公式参拝」発言からである。自らが「飛んで火に入る夏の虫」をやってしまったものである。(*1)
1985年8月15日、時の総理中曽根は靖国神社を参拝し公式参拝だと声名してしまった。
ここまでは良いのだが、翌年以降参拝を中止してしまい、中曽根は首相在任中の参拝をしていない。
公式参拝とわざわざ言っていたのに翌年の1986年年8月14日には、これまたわざわざ時の内閣官房長官・後藤田正晴から「内閣総理大臣の靖国神社への公式参拝は差し控えることとした」との談話を発表させ参拝を中止したものである。
「公式参拝」とかの区分をする必要などない、本質以外を題材とする無用な土俵に中曽根がわざわざ乗った軽率なのである。
靖国神社は国の為に殉じた人々を顕彰・追悼・慰霊する神社である。
いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して敬意を払う権利と義務があり、アメリカにはアーリントン墓地がある。
我が国の場合、それが靖国神社である。神社という形式になっているのは我が国文化に基づくものである。
以前、靖国神社を問題視する勢力側から出された「政教分離違反」なる難癖も、政教分離原則の意味への理解が深まった現在に於いてはその論拠を失っている。(*2)
その国の文化・習俗は「政教分離原則」の「教」に該当しないのである。
「政教分離原則」への理解が足りないと、あたかも政府は「無宗教」でないと一切関われないかの如きのマルクス教信者の思惑通りの間違った話に絡め取られてしまう。(*3)
「無宗教でなければ政教分離違反」との虚偽を流布している勢力の狙いは天皇である。
天皇は神道の最高神官なのだから、現行憲法第2条に規定に基づき世襲する際に我が国の伝統に則り三種の神器の継承だとかが当然の様に行われる。慣習法の考え方からは、まったく問題がないことであっても、屁理屈での難癖をつけてくるのが反日勢力の常套手段なのである。
いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して敬意を払う権利と義務がある。それは戦勝国か敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。
この様な当たり前の視点で考えれば、靖国神社参拝には何等の「問題」はない。
ところが、朝日新聞は社説で閣僚の参拝を「問題だ」とする社説を発信している。(*4)
朝日は社説で靖国神社参拝の何がどの様に「問題」だと言っているのかと言うと、以下の様に、相変わらずの陳腐な話を繰り返しているだけであった。
↓
<抜粋引用開始>(付番は引用者)
①犠牲者を悼むのは当然だ。しかし、靖国神社は軍国主義を支えた国家神道の中心的施設である。しかも、東京裁判で戦争責任を問われたA級戦犯14人が合祀(ごうし)もされている。
②閣僚ら政治指導者の参拝は、遺族や一般の人々が手を合わせるのとは違う。日本が戦争への反省を忘れ、過去を正当化しようとしていると受けとる人がいることに思いをはせるべきだ。憲法が定める政教分離の観点からの疑義も忘れてはならない。
<引用終わり>
先ず、②の最後の部分である。既に手垢のついた「政教分離」を今になっても持ちだしている。その国の文化・習俗は「政教分離原則」の「教」に該当しないのであるが、朝日の社説は相変わらず「政教分離」とのボロボロの看板を使用し続けているものである。
この事を書くと長くなるので、文末脚注の「(*2)及び(*3)」で以前論じた論考を紹介している。当方が靖国参拝に関して「政教分離」なる話が既に陳腐化したボロボロの看板だと称している論拠が書かれているので、ご一読いただきたい。
次に①で2つ書かれていることは、正に「東京裁判史観」そのものである。
「靖国神社は軍国主義を支えた国家神道の中心的施設である」と言っているが、「国家神道」との概念は、キリスト教を文明の基礎に置いている西欧文明の米英が我が国文明を「理解」する際に、「国家宗教が存在するはずだ」という西欧文明での尺度で以て設定されたものでしかない。
朝日の社説は「国家神道」という後付け概念を靖国神社だけに適用している。一方、軍人である東郷平八郎を祀る東郷神社(原宿)や乃木希典を祀った乃木神社(赤坂)や児玉源太郎を祀った児玉神社(江の島)などは日本の普通の神社でありこれらは該当しないので言及していない。そうであれば「国家神道」なるご都合主義の定義でこれら神社を峻別出来なければ論理的ではないのだが、実際のとこと峻別できるものではない。
何故なら、「靖国神社は軍国主義を支えた国家神道の中心的施設である」などという話は存在しないからである。
また、「東京裁判で戦争責任を問われたA級戦犯14人が合祀(ごうし)もされている」と言っているが、サンフランシスコ講和条約に基づき主権回復した後に「戦犯」はなく「公務死」であるとの決議を国会で実施済である。そうであるにも関わらず、東京裁判という戦勝国による「裁判のふりをした復讐の実施」を朝日は無批判に都合よく利用して「社説」に書いているものである。
次に②の前段部分で言っていることだが、そこで書かれている「過去を正当化しようとしていると受けとる人がいる」とは誰のことなのか?
朝日の社説では「閣僚ら政治指導者の参拝は、遺族や一般の人々が手を合わせるのとは違う。日本が戦争への反省を忘れ、過去を正当化しようとしていると受けとる人がいることに思いをはせるべきだ。」などと言っているが、要するに反日朝日自身とそれに呼応する特定アジア諸国のことである。
我が国政府は我が国国民が、その主権を、選挙を通じて行使した結果であり、国民の付託を受けた存在である。「靖国参拝は軍国主義の復活」などと国民の多くが考えているのならば、そもそも選挙で多数を占められない。
特定アジア諸国=外国の意向や反日偏向メディアの代表格である朝日新聞が勝手に「日本が戦争への反省を忘れ、過去を正当化しようとしている」と受けとったとしても、それは受け取る側が歪んでいるだけで、実際に参拝した高市が言っている「国策に殉じた方々の御霊(みたま)に尊崇の念をもって感謝の誠を捧げた」ことは批判される内容ではない。
いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して敬意を払う権利と義務がある。それは戦勝国か敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない、との考え方からすれば、受け取る側が歪んでいると考えるのが妥当である。
毎年8月になると、朝日新聞は、進歩なきボロボロの看板を引っ張り出してきて、それを記事にするが、もういい加減にしていただきたい。
2015年に戦後70周年談話を安倍首相(当時)が発表したが、朝日新聞は、その談話を無視して社説を書いているのがバレバレである。
ガースー・岸田が安倍談話を踏襲していること自体は分かっているが、安倍談話の中身・意義を朝日の社説は無視しており(*5)、全国戦没者追悼式での岸田首相の式辞に対して持ちだしてきたのが1993年の、あの政権放っぽり出しの細川護熙(*6)であることは苦笑を禁じ得ない。
朝日社説の連日の愚劣に対して想起される語句は、やはり「知の退廃」である。
今回は以上である。
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【文末脚注】
(*1):総理・閣僚の靖国神社参拝を特定アジア諸国との「国際問題」にまで発展させる切っ掛けとなったのは、あの中曽根の「公人参拝」発言からである。自らが「飛んで火に入る夏の虫」をやってしまったものである。
↓
2016/08/23投稿:
靖国神社参拝に関するドーナッツ議論
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-489.html
(*2):以前、靖国神社を問題視する勢力側から出された「政教分離違反」なる難癖も、政教分離原則の意味への理解が深まった現在に於いてはその論拠を失っている。
↓
2017/05/05投稿:
「政教分離」とのインチキスローガン
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-664.html
2019/05/04投稿:
その国の文化・習俗は「政教分離」に該当しない
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-1170.html
2015/04/16投稿:
【コラム】我が国マスコミ・野党が誤用する「政教分離」
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-84.html
(*3):「政教分離原則」への理解が足りないと、あたかも政府は「無宗教」でないと一切関われないかの如きのマルクス教信者の思惑通りの間違った話に絡め取られてしまう。
↓
2016/10/15投稿:
雰囲気で「判断」することの危険性
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-520.html
(*4):靖国神社参拝には何等の「問題」はない。
ところが、朝日新聞は社説で閣僚の参拝を「問題だ」とする社説を発信している。
↓
朝日新聞デジタル 2022年8月16日 5時00分
(社説)閣僚靖国参拝 首相の歴史観を問う
https://www.asahi.com/articles/DA3S15388707.html
記事:○岸田政権になって初の「終戦の日」のきのう、高市早苗経済安全保障担当相と秋葉賢也復興相の2閣僚が靖国神社に参拝した。その2日前には、西村康稔経済産業相の参拝もあった。
○ロシアによるウクライナ侵略や台湾海峡の緊張に、「平和国家」としてどう臨むべきか、日本は難しいかじ取りを迫られている。岸田首相自身は自民党総裁として、私費で玉串料を納めただけだが、「不戦の誓い」の原点である先の戦争をどうみるか、政治指導者として、その歴史観が問われる。
○終戦の日の閣僚の参拝は、第2次安倍政権下の一昨年、4年ぶりにあり、菅政権下の昨年も3閣僚が行った。2度の首相交代を経ても続くのは、保守色が強まる自民党内の勢力図を反映してのことだろう。
○安倍政権の総務相時代にも参拝した高市氏はきのう、「国策に殉じた方々の御霊(みたま)に尊崇の念をもって感謝の誠を捧げた」と語り、祖父が中国で戦死したという秋葉氏も「尊崇の念」「哀悼の誠」を口にした。
○犠牲者を悼むのは当然だ。しかし、靖国神社は軍国主義を支えた国家神道の中心的施設である。しかも、東京裁判で戦争責任を問われたA級戦犯14人が合祀(ごうし)もされている。
○閣僚ら政治指導者の参拝は、遺族や一般の人々が手を合わせるのとは違う。日本が戦争への反省を忘れ、過去を正当化しようとしていると受けとる人がいることに思いをはせるべきだ。憲法が定める政教分離の観点からの疑義も忘れてはならない。
○歴史を教訓として、国際秩序の回復や地域の平和と安定にどう主体的にかかわるか。その強い覚悟と具体的な構想こそ求められているというのに、きのうの全国戦没者追悼式での首相の式辞は、安倍・菅首相のものをほぼ引き写しただけだった。
○93年の細川護熙氏以来、歴代首相はアジアの近隣諸国に対する「深い反省」や「哀悼の意」を表明することで、加害責任に向き合ってきた。しかし、第2次政権下の安倍氏が言及をやめ、菅氏、そして首相も、それを踏襲した。
○首相が領袖(りょうしゅう)を務める派閥・宏池会は、「軽武装・経済優先」という戦後日本の基本路線を敷いた吉田茂元首相の流れをくむ池田勇人元首相が創設した。党内では長く、リベラル色の強いハト派集団とみられてきた。首相はまた、被爆地・広島選出の国会議員として「核兵器のない世界」にもこだわりを持つ。
○首相は「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」と誓ったが、自前のことばではなく、ただ前任者のメッセージをなぞるだけでは、その決意は伝わらない。
<引用終わり>
(*5):2015年に戦後70周年談話を安倍首相(当時)が発表したが、朝日新聞は、その談話を無視して社説を書いているのがバレバレである。ガースー・岸田が安倍談話を踏襲していること自体は分かっているが、安倍談話の中身・意義を朝日の社説は無視している。
↓
2021/08/11投稿:
戦後76年の我が国の歩みの一切を無視する8月・「戦後体制」はもう要らない
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-1544.html
【ご参考:2015年の戦後70周年安倍談話】
首相官邸HP 平成27年8月14日
内閣総理大臣談話
https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10992693/www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html
(*6):政権放っぽり出しの細川護熙
↓
2017/10/16投稿:
続々・選挙の度に繰り返される愚行Final
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-780.html
2019/09/26投稿:
3度目の烏合の衆の数合わせを画策している小沢一郎
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-1262.html
2020/12/31投稿:
1989年6月4日・天安門事件の外交文書公開・歴史の教訓
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-1453.html
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副題:朝日社説の連日の愚劣に対して想起される語句は、やはり「知の退廃」である。
総理・閣僚の靖国神社参拝をあたかも「問題」であるかの様な風潮を作ったのは朝日新聞である。朝日が騒ぎ、それを中韓特アが取り上げて騒ぎ、朝日が「アジア諸国が参拝に反対している」と「報道」する山彦作戦の繰り返しで「問題」を大きくしたものである。
靖国神社参拝が「「国際」問題」となってしまった簡単な経緯
1970年代には靖国神社を「軍国主義の象徴」だとする新左翼の言説が既にあり、新左翼界隈では問題視していたことは、自分自身が大学生の頃の経験から知っているが、それが社会問題とはなっていなかった。
総理・閣僚の靖国神社参拝を特定アジア諸国との「国際問題」にまで発展させる切っ掛けとなったのは、あの中曽根の1985年の「公人の公式参拝」発言からである。自らが「飛んで火に入る夏の虫」をやってしまったものである。(*1)
1985年8月15日、時の総理中曽根は靖国神社を参拝し公式参拝だと声名してしまった。
ここまでは良いのだが、翌年以降参拝を中止してしまい、中曽根は首相在任中の参拝をしていない。
公式参拝とわざわざ言っていたのに翌年の1986年年8月14日には、これまたわざわざ時の内閣官房長官・後藤田正晴から「内閣総理大臣の靖国神社への公式参拝は差し控えることとした」との談話を発表させ参拝を中止したものである。
「公式参拝」とかの区分をする必要などない、本質以外を題材とする無用な土俵に中曽根がわざわざ乗った軽率なのである。
靖国神社参拝の何がどの様に「問題」なのか?
靖国神社は国の為に殉じた人々を顕彰・追悼・慰霊する神社である。
いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して敬意を払う権利と義務があり、アメリカにはアーリントン墓地がある。
我が国の場合、それが靖国神社である。神社という形式になっているのは我が国文化に基づくものである。
以前、靖国神社を問題視する勢力側から出された「政教分離違反」なる難癖も、政教分離原則の意味への理解が深まった現在に於いてはその論拠を失っている。(*2)
その国の文化・習俗は「政教分離原則」の「教」に該当しないのである。
「政教分離原則」への理解が足りないと、あたかも政府は「無宗教」でないと一切関われないかの如きのマルクス教信者の思惑通りの間違った話に絡め取られてしまう。(*3)
「無宗教でなければ政教分離違反」との虚偽を流布している勢力の狙いは天皇である。
天皇は神道の最高神官なのだから、現行憲法第2条に規定に基づき世襲する際に我が国の伝統に則り三種の神器の継承だとかが当然の様に行われる。慣習法の考え方からは、まったく問題がないことであっても、屁理屈での難癖をつけてくるのが反日勢力の常套手段なのである。
朝日新聞の社説での「靖国神社参拝の「問題点」」の身勝手さ
いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して敬意を払う権利と義務がある。それは戦勝国か敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。
この様な当たり前の視点で考えれば、靖国神社参拝には何等の「問題」はない。
ところが、朝日新聞は社説で閣僚の参拝を「問題だ」とする社説を発信している。(*4)
朝日は社説で靖国神社参拝の何がどの様に「問題」だと言っているのかと言うと、以下の様に、相変わらずの陳腐な話を繰り返しているだけであった。
↓
<抜粋引用開始>(付番は引用者)
①犠牲者を悼むのは当然だ。しかし、靖国神社は軍国主義を支えた国家神道の中心的施設である。しかも、東京裁判で戦争責任を問われたA級戦犯14人が合祀(ごうし)もされている。
②閣僚ら政治指導者の参拝は、遺族や一般の人々が手を合わせるのとは違う。日本が戦争への反省を忘れ、過去を正当化しようとしていると受けとる人がいることに思いをはせるべきだ。憲法が定める政教分離の観点からの疑義も忘れてはならない。
<引用終わり>
先ず、②の最後の部分である。既に手垢のついた「政教分離」を今になっても持ちだしている。その国の文化・習俗は「政教分離原則」の「教」に該当しないのであるが、朝日の社説は相変わらず「政教分離」とのボロボロの看板を使用し続けているものである。
この事を書くと長くなるので、文末脚注の「(*2)及び(*3)」で以前論じた論考を紹介している。当方が靖国参拝に関して「政教分離」なる話が既に陳腐化したボロボロの看板だと称している論拠が書かれているので、ご一読いただきたい。
次に①で2つ書かれていることは、正に「東京裁判史観」そのものである。
「靖国神社は軍国主義を支えた国家神道の中心的施設である」と言っているが、「国家神道」との概念は、キリスト教を文明の基礎に置いている西欧文明の米英が我が国文明を「理解」する際に、「国家宗教が存在するはずだ」という西欧文明での尺度で以て設定されたものでしかない。
朝日の社説は「国家神道」という後付け概念を靖国神社だけに適用している。一方、軍人である東郷平八郎を祀る東郷神社(原宿)や乃木希典を祀った乃木神社(赤坂)や児玉源太郎を祀った児玉神社(江の島)などは日本の普通の神社でありこれらは該当しないので言及していない。そうであれば「国家神道」なるご都合主義の定義でこれら神社を峻別出来なければ論理的ではないのだが、実際のとこと峻別できるものではない。
何故なら、「靖国神社は軍国主義を支えた国家神道の中心的施設である」などという話は存在しないからである。
また、「東京裁判で戦争責任を問われたA級戦犯14人が合祀(ごうし)もされている」と言っているが、サンフランシスコ講和条約に基づき主権回復した後に「戦犯」はなく「公務死」であるとの決議を国会で実施済である。そうであるにも関わらず、東京裁判という戦勝国による「裁判のふりをした復讐の実施」を朝日は無批判に都合よく利用して「社説」に書いているものである。
次に②の前段部分で言っていることだが、そこで書かれている「過去を正当化しようとしていると受けとる人がいる」とは誰のことなのか?
朝日の社説では「閣僚ら政治指導者の参拝は、遺族や一般の人々が手を合わせるのとは違う。日本が戦争への反省を忘れ、過去を正当化しようとしていると受けとる人がいることに思いをはせるべきだ。」などと言っているが、要するに反日朝日自身とそれに呼応する特定アジア諸国のことである。
我が国政府は我が国国民が、その主権を、選挙を通じて行使した結果であり、国民の付託を受けた存在である。「靖国参拝は軍国主義の復活」などと国民の多くが考えているのならば、そもそも選挙で多数を占められない。
特定アジア諸国=外国の意向や反日偏向メディアの代表格である朝日新聞が勝手に「日本が戦争への反省を忘れ、過去を正当化しようとしている」と受けとったとしても、それは受け取る側が歪んでいるだけで、実際に参拝した高市が言っている「国策に殉じた方々の御霊(みたま)に尊崇の念をもって感謝の誠を捧げた」ことは批判される内容ではない。
いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して敬意を払う権利と義務がある。それは戦勝国か敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない、との考え方からすれば、受け取る側が歪んでいると考えるのが妥当である。
毎年8月になると、朝日新聞は、進歩なきボロボロの看板を引っ張り出してきて、それを記事にするが、もういい加減にしていただきたい。
2015年に戦後70周年談話を安倍首相(当時)が発表したが、朝日新聞は、その談話を無視して社説を書いているのがバレバレである。
ガースー・岸田が安倍談話を踏襲していること自体は分かっているが、安倍談話の中身・意義を朝日の社説は無視しており(*5)、全国戦没者追悼式での岸田首相の式辞に対して持ちだしてきたのが1993年の、あの政権放っぽり出しの細川護熙(*6)であることは苦笑を禁じ得ない。
朝日社説の連日の愚劣に対して想起される語句は、やはり「知の退廃」である。
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(*1):総理・閣僚の靖国神社参拝を特定アジア諸国との「国際問題」にまで発展させる切っ掛けとなったのは、あの中曽根の「公人参拝」発言からである。自らが「飛んで火に入る夏の虫」をやってしまったものである。
↓
2016/08/23投稿:
靖国神社参拝に関するドーナッツ議論
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-489.html
(*2):以前、靖国神社を問題視する勢力側から出された「政教分離違反」なる難癖も、政教分離原則の意味への理解が深まった現在に於いてはその論拠を失っている。
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「政教分離」とのインチキスローガン
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-664.html
2019/05/04投稿:
その国の文化・習俗は「政教分離」に該当しない
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-1170.html
2015/04/16投稿:
【コラム】我が国マスコミ・野党が誤用する「政教分離」
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(*3):「政教分離原則」への理解が足りないと、あたかも政府は「無宗教」でないと一切関われないかの如きのマルクス教信者の思惑通りの間違った話に絡め取られてしまう。
↓
2016/10/15投稿:
雰囲気で「判断」することの危険性
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-520.html
(*4):靖国神社参拝には何等の「問題」はない。
ところが、朝日新聞は社説で閣僚の参拝を「問題だ」とする社説を発信している。
↓
朝日新聞デジタル 2022年8月16日 5時00分
(社説)閣僚靖国参拝 首相の歴史観を問う
https://www.asahi.com/articles/DA3S15388707.html
記事:○岸田政権になって初の「終戦の日」のきのう、高市早苗経済安全保障担当相と秋葉賢也復興相の2閣僚が靖国神社に参拝した。その2日前には、西村康稔経済産業相の参拝もあった。
○ロシアによるウクライナ侵略や台湾海峡の緊張に、「平和国家」としてどう臨むべきか、日本は難しいかじ取りを迫られている。岸田首相自身は自民党総裁として、私費で玉串料を納めただけだが、「不戦の誓い」の原点である先の戦争をどうみるか、政治指導者として、その歴史観が問われる。
○終戦の日の閣僚の参拝は、第2次安倍政権下の一昨年、4年ぶりにあり、菅政権下の昨年も3閣僚が行った。2度の首相交代を経ても続くのは、保守色が強まる自民党内の勢力図を反映してのことだろう。
○安倍政権の総務相時代にも参拝した高市氏はきのう、「国策に殉じた方々の御霊(みたま)に尊崇の念をもって感謝の誠を捧げた」と語り、祖父が中国で戦死したという秋葉氏も「尊崇の念」「哀悼の誠」を口にした。
○犠牲者を悼むのは当然だ。しかし、靖国神社は軍国主義を支えた国家神道の中心的施設である。しかも、東京裁判で戦争責任を問われたA級戦犯14人が合祀(ごうし)もされている。
○閣僚ら政治指導者の参拝は、遺族や一般の人々が手を合わせるのとは違う。日本が戦争への反省を忘れ、過去を正当化しようとしていると受けとる人がいることに思いをはせるべきだ。憲法が定める政教分離の観点からの疑義も忘れてはならない。
○歴史を教訓として、国際秩序の回復や地域の平和と安定にどう主体的にかかわるか。その強い覚悟と具体的な構想こそ求められているというのに、きのうの全国戦没者追悼式での首相の式辞は、安倍・菅首相のものをほぼ引き写しただけだった。
○93年の細川護熙氏以来、歴代首相はアジアの近隣諸国に対する「深い反省」や「哀悼の意」を表明することで、加害責任に向き合ってきた。しかし、第2次政権下の安倍氏が言及をやめ、菅氏、そして首相も、それを踏襲した。
○首相が領袖(りょうしゅう)を務める派閥・宏池会は、「軽武装・経済優先」という戦後日本の基本路線を敷いた吉田茂元首相の流れをくむ池田勇人元首相が創設した。党内では長く、リベラル色の強いハト派集団とみられてきた。首相はまた、被爆地・広島選出の国会議員として「核兵器のない世界」にもこだわりを持つ。
○首相は「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」と誓ったが、自前のことばではなく、ただ前任者のメッセージをなぞるだけでは、その決意は伝わらない。
<引用終わり>
(*5):2015年に戦後70周年談話を安倍首相(当時)が発表したが、朝日新聞は、その談話を無視して社説を書いているのがバレバレである。ガースー・岸田が安倍談話を踏襲していること自体は分かっているが、安倍談話の中身・意義を朝日の社説は無視している。
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2021/08/11投稿:
戦後76年の我が国の歩みの一切を無視する8月・「戦後体制」はもう要らない
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-1544.html
【ご参考:2015年の戦後70周年安倍談話】
首相官邸HP 平成27年8月14日
内閣総理大臣談話
https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10992693/www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html
(*6):政権放っぽり出しの細川護熙
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2017/10/16投稿:
続々・選挙の度に繰り返される愚行Final
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-780.html
2019/09/26投稿:
3度目の烏合の衆の数合わせを画策している小沢一郎
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2020/12/31投稿:
1989年6月4日・天安門事件の外交文書公開・歴史の教訓
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-1453.html
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