1945年8月9日・ソ連の満州侵攻・日ソ不可侵条約の一方的破棄
- 2022/08/09
- 22:21
1945年8月9日・ソ連の満州侵攻・日ソ不可侵条約の一方的破棄
副題:日ソ不可侵条約を一方的に破棄したソ連の満州侵攻。しかし、それは既に1945年2月のルーズベルト・スターリンによる「ヤルタ密約」での既定路線。日本の和平交渉を拒否し続け、原爆を広島と長崎に落とし、ソ連参戦でユーラシア大陸の東側を共産主義国化させたのはアメリカ民主党大統領であるルーズベルト&トルーマンの失政。
8月6日の広島原爆の日に比べ、8月9日2発目の長崎原爆は、その「報道」のトーンが落ちると毎年感じている。
そして同時に、8月9日のソ連参戦が「報道」されることは稀である。
戦後の我が国の社会・メディアに蔓延るイデオロギー偏向により1945年8月のソ連の非道が語られることが稀になっていると考えている。
しかし、ソ連参戦こそが、その直前まで日ソ不可侵条約に基づき「ソ連は中立国」だとして英米との和平交渉の仲介を依頼していた我が国にとって、先の大戦の終焉を覚悟した出来事なのである。
1945年(昭和20年)8月9日午前零時過ぎに、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して150万人の将兵・5500両以上の戦車等の装甲車両・3700機の航空機を以て満州へと侵攻した。
戦前の我が国は西方のソ連からの防衛を重視しており、満州には精強関東軍が駐屯していたが、南方戦線の戦状悪化に伴い、関東軍はその一部を南方戦線への転出を余儀なくされており、ソ連侵攻時には兵力68万・戦車200両・野砲400門・航空機300機程度へと戦力ダウンしており、効果的防戦が実施できる状態ではなかった。
満州の国境選は北及びその東西総てがソ連と接しており、大兵力で以て侵攻されたらたまったものではない。
一方、ソ連は満州のみならず、樺太・千島列島にも侵攻した。こちらはソ連の苦手な海上輸送を伴う侵攻だったので北海道本土への上陸は阻止出来たものの国後・択捉他の我が国固有の領土である北方領土は占拠されてしまい、現在に至るも返ってきていない。
8月9日に始まったソ連軍の侵攻は終戦の日(ポツダム宣言受諾日)の8月15日以降も止まらず、ソ連軍の武力行使は調印日の9月2日を過ぎ、9月5日まで続いた。
その間、非戦闘員・婦女子に対する蛮行は続き、戦闘が終了した後もそれは続いた。
戦後の我が国では、あたかも戦争が最悪の状態であるかの如き言説が流布されているが、史実はけしてそうではない。(*1)
ソ連軍が参戦してきた理由は、当時のソ連の独裁者であるスターリンとアメリカ大統領ルーズベルトの間での密約があったからである。
「ヤルタ密約」と言われるヤルタ会談の際に結ばれた密約の内容はナチス・ドイツが降伏した後、最長3カ月以内にソ連が対日参戦するというものだ。
クリミア半島の保養地・ヤルタで1945年2月4~11日に開かれた、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ3首脳会談が「ヤルタ会談」である。同会談の主要な議題は戦後処理の基本方針であるが、ここで話されたことが、戦後の領土問題に大きく影響していおり、東西冷戦時までは盛んに「ヤルタ体制」との語句が用いられたものである。
ルーズベルトの前の大統領のフーバーは、ヤルタ会談について、スターリンによるバルト三国、フィンランドの一部地域、東欧諸国のソ連邦取り込み及びソ連傀儡の衛星国化をルーズベルトとチャーチルは黙認し、共産圏の拡大を許したことで戦後の東西冷戦をより厳しいものにしたと大いに批判している。(*2)
スターリンにしてみれば、ソ連の西側・欧州方面での勢力拡大を認めてもらい、かつ東側・アジア方面では日露戦争で失った地を奪回するチャンスと北海道占領との野望を「ルーズベルトからの依頼」との建て付けで暴れられるのだから、渡りに船・願ったり叶ったり状態だった訳だ。
それ故に8月15日を過ぎても調印が終わった9月2日以降もソ連は侵略行為を止めなかったのである。
ソ連は「ヤルタ密約」に基づき、ドイツが敗戦した5月9日の3ヶ月後の8月9日に満州・樺太・千島列島に侵攻したのである。
ルーズベルトの前の大統領だったフーバーはその著作で、ルーズベルト&トルーマンのアメリカ民主党大統領がおかした失政に対して厳しくかつ的確に批判している。
「7年間で19の失政(A Review of Lost Statesmanship — 19 Times in 7 Years)」との表台の論評での「15番目の過ち」として掲げているのが、ルーズベルトとトルーマンが我が国からの和平交渉を拒否し続けたことだとしている。
15番目の失政の表題は「1945年5月から7月の日本の和平提案を尽く拒否したとの過ち(Refusal of Japanese Peace Proposals of May–July, 1945)」である。
フーバーはこの論考では「1945年5月」からとしているが、我が国の和平交渉は1945年3月には始まっている。
以下にフーバーの著作の別の章から我が国の和平交渉努力に関する部分を抜粋引用する。(*3)
↓
○1945年3月時点:
1945年3月、ヤルタの1ヶ月後に、駐日スウェーデン大使は、日本の外務大臣重光から、日本のために和平交渉の仲介を頼まれた。
○1945年7月時点:
1945年7月、再度の和平の望みを以て、日本政府は近衛元総理のモスクワ派遣をソ連に提案した。日本は仲介者として中立国を必要としており、ソ連がまだ中立国だと勘違いしていたのである。
7月13日にソ連は近衛の使節団の訪問通知を受け取ったのだが、7月18日に彼の受け入れを拒否した。
7月21日に日本政府は駐モスクワ大使に、近衛使節団の訪ソ目的は戦争を終結する為にソ連の仲介を求めるものであるとの理由を明確にして、再度の受入要請をする様に強い指示を発した。
ソ連は7月25日に再度の要請を受け取ったが、日本に対しての返答は全然与えられなかった。
○この様に、7月26日にポツダム会談で最後通牒が出される前に、日本は6ヶ月にわたる和平打診をしており、また、約2週前には、ソ連に対して仲介要請との和平に向けての積極的な提案が日本から出されたことを、トルーマンもバーンズもスティムソンも電報の通信傍受によって完全な情報を持っていたのにも係わらず、あのポツダム宣言が出された。
<引用終わり>
注目していただきたいのは「1945年7月時点」の記述である。
ポツダム宣言の直前まで我が国は、日ソ不可侵条約に基づき「ソ連は中立国」だとして英米との和平交渉の仲介を依頼していたことが分かるであろう。
これを間抜けだと言うのは簡単なのだが、実際のところ、ソ連は「ヤルタ密約」などなかったかの様な振る舞いをしていたのだから、当時の我が国が気がつかなかったのも仕方がない。
実際のところ、1945年7月26日のポツダム宣言にソ連は参加していない。(*4)
これは日ソ不可侵条約が有効だとのポーズをソ連がとっていた証拠でもある。
ソ連は、この時点で既にヤルタ密約(1945年2月)を締結しており、その年の5月9日のドイツ敗戦からは、遅くても同年8月9日には対日参戦を決定しているにも関わらず、こういう事をしていたのである。
この様に、8月9日のソ連侵攻とは、それまでの和平交渉努力・仲介依頼がまったく希望のないものであったことが明らかになった事象なのである。
日ソ不可侵条約はソ連によって一方的に破棄され、満州や当時は我が国の一部であった朝鮮半島はソ連軍に蹂躙された。
無頼国家との条約を無頼国家が守るとは限らないことを我々は史実として認識すべきである。
それは20世紀前半だけの特別な事態ではない。21世紀現在、日韓基本条約等の条約を韓国は守っていない。
「無頼国家との条約を無頼国家が守るとは限らない」のである。
口で言って分からない奴には武力を背景に分からせるしかないのは古今東西変わらぬ真理であることは間違いがない。
歴史から学ぶ為には、何かのイデオロギーで史実を隠すことはマイナスでしかない。
史実を踏まえ、その史実から学ぶことが「歴史から学ぶ」ということである。
今回は以上である。
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【文末脚注】
(*1):非戦闘員・婦女子に対する蛮行は続き、戦闘が終了した後もそれは続いた。戦後の我が国では、あたかも戦争が最悪の状態であるかの如き言説が流布されているが、史実はけしてそうではない。
↓
2022/03/20投稿:
「降伏すれば命は安泰」なる虚偽。悲劇は戦争後も続く:ウクライナ情勢雑感7
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-1631.html
(*2):ルーズベルトの前の大統領のフーバーは、ヤルタ会談について、スターリンによるバルト三国、フィンランドの一部地域、東欧諸国のソ連邦取り込み及びソ連傀儡の衛星国化をルーズベルトとチャーチルは黙認し、共産圏の拡大を許したことで戦後の東西冷戦をより厳しいものにしたと大いに批判している。(*2)
↓
2016/11/19投稿:
フーバー回顧録Doc.18-8・ヤルタ会談
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-546.html
2016/09/23投稿:
フーバー回顧録・目次7
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-506.html
【ご参考】
2019/04/21投稿:
根拠は何処に?朝鮮半島分断の責任
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-1160.html
(*3):フーバーの著作から我が国の和平交渉努力に関する部分。
↓
2016/09/25投稿:
フーバー回顧録・目次8
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-508.html
2016/11/20投稿:
フーバー回顧録Doc.18-9
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-547.html
(*4):1945年7月26日のポツダム宣言にソ連は参加していない。
↓
2018/07/26投稿:
7月26日「今日は何の日」・ポツダム宣言
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-986.html
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副題:日ソ不可侵条約を一方的に破棄したソ連の満州侵攻。しかし、それは既に1945年2月のルーズベルト・スターリンによる「ヤルタ密約」での既定路線。日本の和平交渉を拒否し続け、原爆を広島と長崎に落とし、ソ連参戦でユーラシア大陸の東側を共産主義国化させたのはアメリカ民主党大統領であるルーズベルト&トルーマンの失政。
8月6日の広島原爆の日に比べ、8月9日2発目の長崎原爆は、その「報道」のトーンが落ちると毎年感じている。
そして同時に、8月9日のソ連参戦が「報道」されることは稀である。
戦後の我が国の社会・メディアに蔓延るイデオロギー偏向により1945年8月のソ連の非道が語られることが稀になっていると考えている。
しかし、ソ連参戦こそが、その直前まで日ソ不可侵条約に基づき「ソ連は中立国」だとして英米との和平交渉の仲介を依頼していた我が国にとって、先の大戦の終焉を覚悟した出来事なのである。
1945年8月9日ソ連の満州侵攻
1945年(昭和20年)8月9日午前零時過ぎに、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して150万人の将兵・5500両以上の戦車等の装甲車両・3700機の航空機を以て満州へと侵攻した。
戦前の我が国は西方のソ連からの防衛を重視しており、満州には精強関東軍が駐屯していたが、南方戦線の戦状悪化に伴い、関東軍はその一部を南方戦線への転出を余儀なくされており、ソ連侵攻時には兵力68万・戦車200両・野砲400門・航空機300機程度へと戦力ダウンしており、効果的防戦が実施できる状態ではなかった。
満州の国境選は北及びその東西総てがソ連と接しており、大兵力で以て侵攻されたらたまったものではない。
一方、ソ連は満州のみならず、樺太・千島列島にも侵攻した。こちらはソ連の苦手な海上輸送を伴う侵攻だったので北海道本土への上陸は阻止出来たものの国後・択捉他の我が国固有の領土である北方領土は占拠されてしまい、現在に至るも返ってきていない。
8月9日に始まったソ連軍の侵攻は終戦の日(ポツダム宣言受諾日)の8月15日以降も止まらず、ソ連軍の武力行使は調印日の9月2日を過ぎ、9月5日まで続いた。
その間、非戦闘員・婦女子に対する蛮行は続き、戦闘が終了した後もそれは続いた。
戦後の我が国では、あたかも戦争が最悪の状態であるかの如き言説が流布されているが、史実はけしてそうではない。(*1)
何故8月9日なのか
ソ連軍が参戦してきた理由は、当時のソ連の独裁者であるスターリンとアメリカ大統領ルーズベルトの間での密約があったからである。
「ヤルタ密約」と言われるヤルタ会談の際に結ばれた密約の内容はナチス・ドイツが降伏した後、最長3カ月以内にソ連が対日参戦するというものだ。
クリミア半島の保養地・ヤルタで1945年2月4~11日に開かれた、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ3首脳会談が「ヤルタ会談」である。同会談の主要な議題は戦後処理の基本方針であるが、ここで話されたことが、戦後の領土問題に大きく影響していおり、東西冷戦時までは盛んに「ヤルタ体制」との語句が用いられたものである。
ルーズベルトの前の大統領のフーバーは、ヤルタ会談について、スターリンによるバルト三国、フィンランドの一部地域、東欧諸国のソ連邦取り込み及びソ連傀儡の衛星国化をルーズベルトとチャーチルは黙認し、共産圏の拡大を許したことで戦後の東西冷戦をより厳しいものにしたと大いに批判している。(*2)
スターリンにしてみれば、ソ連の西側・欧州方面での勢力拡大を認めてもらい、かつ東側・アジア方面では日露戦争で失った地を奪回するチャンスと北海道占領との野望を「ルーズベルトからの依頼」との建て付けで暴れられるのだから、渡りに船・願ったり叶ったり状態だった訳だ。
それ故に8月15日を過ぎても調印が終わった9月2日以降もソ連は侵略行為を止めなかったのである。
ソ連は「ヤルタ密約」に基づき、ドイツが敗戦した5月9日の3ヶ月後の8月9日に満州・樺太・千島列島に侵攻したのである。
ソ連参戦は和平交渉の可能性が皆無であることの表れ
ルーズベルトの前の大統領だったフーバーはその著作で、ルーズベルト&トルーマンのアメリカ民主党大統領がおかした失政に対して厳しくかつ的確に批判している。
「7年間で19の失政(A Review of Lost Statesmanship — 19 Times in 7 Years)」との表台の論評での「15番目の過ち」として掲げているのが、ルーズベルトとトルーマンが我が国からの和平交渉を拒否し続けたことだとしている。
15番目の失政の表題は「1945年5月から7月の日本の和平提案を尽く拒否したとの過ち(Refusal of Japanese Peace Proposals of May–July, 1945)」である。
フーバーはこの論考では「1945年5月」からとしているが、我が国の和平交渉は1945年3月には始まっている。
以下にフーバーの著作の別の章から我が国の和平交渉努力に関する部分を抜粋引用する。(*3)
↓
○1945年3月時点:
1945年3月、ヤルタの1ヶ月後に、駐日スウェーデン大使は、日本の外務大臣重光から、日本のために和平交渉の仲介を頼まれた。
○1945年7月時点:
1945年7月、再度の和平の望みを以て、日本政府は近衛元総理のモスクワ派遣をソ連に提案した。日本は仲介者として中立国を必要としており、ソ連がまだ中立国だと勘違いしていたのである。
7月13日にソ連は近衛の使節団の訪問通知を受け取ったのだが、7月18日に彼の受け入れを拒否した。
7月21日に日本政府は駐モスクワ大使に、近衛使節団の訪ソ目的は戦争を終結する為にソ連の仲介を求めるものであるとの理由を明確にして、再度の受入要請をする様に強い指示を発した。
ソ連は7月25日に再度の要請を受け取ったが、日本に対しての返答は全然与えられなかった。
○この様に、7月26日にポツダム会談で最後通牒が出される前に、日本は6ヶ月にわたる和平打診をしており、また、約2週前には、ソ連に対して仲介要請との和平に向けての積極的な提案が日本から出されたことを、トルーマンもバーンズもスティムソンも電報の通信傍受によって完全な情報を持っていたのにも係わらず、あのポツダム宣言が出された。
<引用終わり>
注目していただきたいのは「1945年7月時点」の記述である。
ポツダム宣言の直前まで我が国は、日ソ不可侵条約に基づき「ソ連は中立国」だとして英米との和平交渉の仲介を依頼していたことが分かるであろう。
これを間抜けだと言うのは簡単なのだが、実際のところ、ソ連は「ヤルタ密約」などなかったかの様な振る舞いをしていたのだから、当時の我が国が気がつかなかったのも仕方がない。
実際のところ、1945年7月26日のポツダム宣言にソ連は参加していない。(*4)
これは日ソ不可侵条約が有効だとのポーズをソ連がとっていた証拠でもある。
ソ連は、この時点で既にヤルタ密約(1945年2月)を締結しており、その年の5月9日のドイツ敗戦からは、遅くても同年8月9日には対日参戦を決定しているにも関わらず、こういう事をしていたのである。
この様に、8月9日のソ連侵攻とは、それまでの和平交渉努力・仲介依頼がまったく希望のないものであったことが明らかになった事象なのである。
無頼国家との条約を担保するのは軍事力しかないのが実際
日ソ不可侵条約はソ連によって一方的に破棄され、満州や当時は我が国の一部であった朝鮮半島はソ連軍に蹂躙された。
無頼国家との条約を無頼国家が守るとは限らないことを我々は史実として認識すべきである。
それは20世紀前半だけの特別な事態ではない。21世紀現在、日韓基本条約等の条約を韓国は守っていない。
「無頼国家との条約を無頼国家が守るとは限らない」のである。
口で言って分からない奴には武力を背景に分からせるしかないのは古今東西変わらぬ真理であることは間違いがない。
歴史から学ぶ為には、何かのイデオロギーで史実を隠すことはマイナスでしかない。
史実を踏まえ、その史実から学ぶことが「歴史から学ぶ」ということである。
今回は以上である。
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【文末脚注】
(*1):非戦闘員・婦女子に対する蛮行は続き、戦闘が終了した後もそれは続いた。戦後の我が国では、あたかも戦争が最悪の状態であるかの如き言説が流布されているが、史実はけしてそうではない。
↓
2022/03/20投稿:
「降伏すれば命は安泰」なる虚偽。悲劇は戦争後も続く:ウクライナ情勢雑感7
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-1631.html
(*2):ルーズベルトの前の大統領のフーバーは、ヤルタ会談について、スターリンによるバルト三国、フィンランドの一部地域、東欧諸国のソ連邦取り込み及びソ連傀儡の衛星国化をルーズベルトとチャーチルは黙認し、共産圏の拡大を許したことで戦後の東西冷戦をより厳しいものにしたと大いに批判している。(*2)
↓
2016/11/19投稿:
フーバー回顧録Doc.18-8・ヤルタ会談
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-546.html
2016/09/23投稿:
フーバー回顧録・目次7
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-506.html
【ご参考】
2019/04/21投稿:
根拠は何処に?朝鮮半島分断の責任
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-1160.html
(*3):フーバーの著作から我が国の和平交渉努力に関する部分。
↓
2016/09/25投稿:
フーバー回顧録・目次8
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-508.html
2016/11/20投稿:
フーバー回顧録Doc.18-9
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-547.html
(*4):1945年7月26日のポツダム宣言にソ連は参加していない。
↓
2018/07/26投稿:
7月26日「今日は何の日」・ポツダム宣言
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-986.html
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