あいちトリアンナーレ「表現の不自由展・その後」考(前編)
- 2019/10/20
- 22:49
あいちトリアンナーレ「表現の不自由展・その後」考(前編)
<あいちトリアンナーレ騒動は改憲議論泥沼化の為の布石かもしれない>

副題:多くの国民が不快に感じる自称「アート作品」なるガラクタを展示して、憲法21条を持ち出して盛んに騒ぐ行為の目的は、自民党改憲草案をつぶすの為の布石なんじゃないか?そんな疑問が湧いたので、その疑問が湧いた理由を記録しておく。
ツイッターを見ていたら「あいちコリアンナーレ」なるフレーズに出会った。
実に風刺が効いた言い回しである。
「あいちトリアンナーレ」で問題となっている展示物は、韓国側が普段常用している反日常套句とまるで同じであることから、この様な冗談フレーズを思い付いたのであろう。
さて、「あいちトリエンナーレ」の展示物の問題点は、以前の論考「芸術性よりも偏向した政治性を優先した津田「芸術」監督」(*1)にて指摘済だが、もうちょっと述べておきたい。
また、「あいちトリエンナーレ」の実行委員会・会長の座にある愛知県知事・大村は、盛んに「現行憲法第21条」(集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由条項)を持ち出しており、大村の憲法条文の読み方の浅い理解に関しても以前の論考で指摘済み(*2)であるのだが、大村は、そんな強弁・牽強付会をいまだに言い続けている。
現行憲法第21条は、第3章(国民の権利及び義務)の中の条文だ。
第3章は第10条から第40条があり、同章・第12条には「濫用禁止」「公共の福祉優先」の規定があり、第12条は第3章全体に掛かるものである。
そういう構造からは、第21条の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」にも一定の節度が求められるものである。
大村に関する以前の論考では、この指摘の事例として、ドイツ憲法(ドイツ基本法)での「第9条・結社の自由理念」と「同第2項の禁止されている結社=ナチス党は禁止」を紹介している。
論理的には第21条だけを持ってきての自己弁護は成り立たないもので、争点は、騒ぎの原因となっている展示物が第12条規定に反する存在なのか否かを含めての問題となっているものである。
ところが大村はいまだに第21条だけを持ち出して発言し続けている。
当方は、盛んに繰り返し「第21条」を口にする大村の姿に違和感を持ったのである。
そもそも現行憲法第21条の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」の理念規定は、条文で例示されている「集会」「結社」「言論」「出版」に見られる様に、各人の政治的主張。政治的活動を規制しないとの民主主義原則を保障する為の条文だ。
一方、今回の騒動の対象となっているのは、アート・芸術を自称する「作品」である。
「集会」「結社」「言論」「出版」等の各人の政治的主張。政治的活動は、大学でいえば「政治学部」とは「政経学部・政治学科」の世界であり、社会科学の世界の話である。
そこには、人類が築き上げてきた社会科学の論理性が存在している。
一方、今回騒動の対象は「アート・芸術」である。
「アート・芸術」或いは「芸能」は、「感性の世界」の話であり、客観的な基準が存在しない。
絵画、彫刻、オブジェ、楽曲、映像等々の各種作品に対する各人の評価は千差万別だ。
各人の感性に応じて「好き・嫌い」が言える世界であり、最終的には「これが正しい」とかを明確には言えない世界なのである。
大村は盛んに現行憲法第21条を持ち出してくるが、そういう差異があるのに、これについても言及しない。
以上が、疑問を持つに至る前の基本的事実認識である。
何か誤認があれば、ご指摘いただきたい。
この様な基本的事実認識を踏まえ、次に「アート・芸術の世界」をスタート地点としての思考経過。ポイントを紹介する。
「アート・芸術の世界」の話なので、最初の部分は感性に軸足がある記述となるので、その点は、予めご承知おき願いたい。
●<芸術性が欠落していることについて>
「あいちトリエンターレ」は芸術祭のはずなのだが、問題となっている展示物を、その政治的主張(実際は罵詈雑言・誹謗中傷だが)を取り除き、アートとして見た場合、当方の評価としては、作品の作り込み、造作に於いて、あれら「作品」は「やっつけ仕事」のレベルでありガラクタに等しいと考えている。
つまり、アート作品としては、作家としての最低限の努力がなされていないものだと評価している。アート作品の良し悪し以前の問題だと思う。
以前、ろくでなし子がかかわった騒動に関して論考した際に、その作品の良し悪しに関しては、当方の感性からは全然関心がない旨を述べた。(*3)
しかし、すくなくとも、ろくでなし子の「デコマン」はアート作家としての最低限の努力がなされており、「アート作品としての良し悪しをする対象」になっているレベルの造作がなされている。
その上で、当方としては、「デコマン」はダメだと受け止めている訳だ。
一方、あいちトリアンテーレの展示物は、自称「アート作品」なのだが、あれはアート作品になり得ていないと評価している。
勿論、作者が「これはアートだ」と思っていれば、それは作者にとってのアートなのであろうが、それを展示して皆に見せる行為をするのだったら、それを鑑賞した側は、鑑賞者の感性で色々と評価するものである。その結果が「ガラクタ」なだけである。
感性の世界での評価とは、こういうものである。
●<アート作品に込められた政治性に関する観点>
上記した津田「芸術:監督に関する以前の論考で明示した様に、芸術作品・アート作品には、政治性、政治的メッセージが込められていて構わないと考えている。
以前の論考では、ピカソのゲルニカ等の幾つかの絵画を例にその旨を述べている。
また、作品に込められた政治性・政治的メッセージが、当方信条とは真逆なものであっても、その内容だけで、その作品の芸術性を否定するものではない。
その政治的主張を取り除いて芸術性を評価するだけの感性は持ち合わせているつもりである。以前の論考では、共産主義の非人間性を危険視している当方であっても、音楽作品としてのワルシャワ労働歌を評価している事を述べているのは、そういう視点からである。
●<政治性・政治的メッセージの内容について>
上記した様に「政治性・政治的メッセージ」を込めた芸術作品の事例としてピカソのゲルニカを示した。以前の論考では、これ以外にピカソの「朝鮮虐殺」とゴヤの「プリンシペ・ピオの丘での銃殺」を例示している。
ゲルニカは、スペイン内戦でのゲルニカ(地名)に対する無差別爆撃がテーマだ。そこに描かれているのはアブストラクトなので様々な解釈が成り立つが、一般的には爆撃で殺された民衆などが描かれ、反戦がテーマである様に言われている。
ピカソの「朝鮮虐殺」は朝鮮戦争での軍による住民大量虐殺がテーマだ。被害にあったのは、朝鮮半島の黄海側の38度線を超えた「黄海南道」の信川郡の住民だと言う事は確かなのだが、加害者が誰なのかは諸説ある。北朝鮮側は「米軍(国連軍)による虐殺だ」としているが、北朝鮮軍によるもの、異なる思想の住民間によるものなど諸説ある。
この手の南北朝鮮が関係するものは政治的プロパガンダが発生しやすく事実が何だか分からないものである。例えば、英語版Wikiでは記載がある諸説が日本語版にはないとか、プロパガンダ臭がきつい。
何れにしろ、民衆が虐殺されたことを否定的に捉え、それへの怒り・悲しみが作品を生んだ情念であると推定される作品である。
ゴヤの「プリンシペ・ピオの丘での銃殺」は、1808年(19世紀最初期)の出来事を題材にしたものである。
ナポレオン・フランス軍がイギリス・ポルトガル軍と闘ったナポレオン戦争時に起こった、スペイン・マドリードでのマドリード市民の抵抗運動に対するナポレオン軍による処刑がテーマの作品である。
マスケット銃が主流の中、ライフル部隊の描いたイギリスのTVドラマ「炎の英雄・シャープ」は、この戦争を時代背景にしたものであり、これも無力な民衆が殺されることへの怒り・悲しみが作品を生んだ情念であると推定される作品である。
これら例示した作品は、芸術作品として優れているものだと考えている。
そして、これら作品のテーマは共通している。テーマは、現在に於いて「正義ではない」とされる「強力(ゲパルト)を持つ存在による民衆の虐殺・処刑行為」である。
たった3点だが、ここで例示した作品は、芸術性に優れ、かつ、そこに込められた政治性・政治的メッセージも共感を得られる内容だというものだ。
一方、ここでちょっと引っ掛かったのは「政治性が込められた芸術作品はOK」だとの当方の基本的認識を物差しにした場合、その政治的メッセージに関して、「それが世間一般で受け入れられるものであるか否か」という視点の存在だ。
この様に考えたのは、「芸術性に優れていても忌避される作品がある」という、もう一方の事実である。
今や、もうそんな事はないのだが、その昔、ワーグナーの作品はナチス・ヒットラーが愛好したことを理由に忌避されていた時代がある。
ちょっと調べてみたら、現在でもイスラエルではワーグナーが忌避されていて、公に演奏されることは許されていないらしい。
どうやら、芸術作品・アート作品の扱いは、その芸術性のみならず、それに付随すると看做される別の価値観との合同・合算で人々に評価されるものである事が一般的であると言って良いものとなる。
芸術作品・アート作品は、感性の世界の存在であり、鑑賞者等の受け取る側も、各人の感性で受け取るのである。その受け取り方も、ここで要素分解した様な芸術性と政治性を分けて各々を捉えることをする鑑賞者はむしろ少数で、総合的に受け取っての評価を行う方が一般的だと思う。
そうなると、件の「あいちトリエンナーレ」の問題の展示物は、芸術性とそこに込められた政治性・政治メッセージの両面での、総合的な受け取り方の評価の対象となるものであると結論付けられることになる。
つまり、作品に込められている政治性・政治メッセージは、評価・議論の対象であるということだ。
<長くなったので項を分けます>
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【文末脚注】
(*1):「芸術」監督・津田に関する以前の論考
2019/08/08投稿:
芸術性よりも偏向した政治性を優先した津田「芸術」監督
<本当は恐ろしい自称「リベラル」の本性・2019>
http://samrai308w.blog.fc2.com//blog-entry-1237.html
(*2):大村の憲法条文の読み方の浅い理解に関しても以前の論考で指摘済みである。
2019/08/10投稿:
大村愛知県知事の安易な理解「憲法21条違反」
http://samrai308w.blog.fc2.com//blog-entry-1238.html
【ご参考】
※ドイツ憲法の「結社の自由」を事例に「理念+制限」に関して論考したことがある。
2017/08/25投稿:
「ナチスはドイツ憲法で禁止」との慣用句
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-739.html
(*3):以前のろくでなし子がかかわった騒動に関しての論考
2015/11/07投稿:
【コラム】ぱよちん音頭
<本当は恐ろしい自称「リベラル」の本性
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-255.html
【ご参考】
※アーティスト・ろくでなし子が、ぱよちん音頭を面白がったら、一斉に攻撃をし始めたパヨク達の偏狭さと底意地の悪さが酷かったことからの論評2つ
↓
2015/11/13投稿:
【コラム】表現の自由を踏みにじり「レイシスト」と叫ぶ輩
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-262.html
2015/12/27投稿:
【コラム】多様性を認めない不寛容さが彼等の特徴
副題:「表現の自由」より、自らの党派性を優先する姿勢は、自己の価値観を他者に強要する価値一元論である。本当は恐ろしい自称「リベラル」の本性。
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-294.html
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<あいちトリアンナーレ騒動は改憲議論泥沼化の為の布石かもしれない>


副題:多くの国民が不快に感じる自称「アート作品」なるガラクタを展示して、憲法21条を持ち出して盛んに騒ぐ行為の目的は、自民党改憲草案をつぶすの為の布石なんじゃないか?そんな疑問が湧いたので、その疑問が湧いた理由を記録しておく。
ツイッターを見ていたら「あいちコリアンナーレ」なるフレーズに出会った。
実に風刺が効いた言い回しである。
「あいちトリアンナーレ」で問題となっている展示物は、韓国側が普段常用している反日常套句とまるで同じであることから、この様な冗談フレーズを思い付いたのであろう。
さて、「あいちトリエンナーレ」の展示物の問題点は、以前の論考「芸術性よりも偏向した政治性を優先した津田「芸術」監督」(*1)にて指摘済だが、もうちょっと述べておきたい。
また、「あいちトリエンナーレ」の実行委員会・会長の座にある愛知県知事・大村は、盛んに「現行憲法第21条」(集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由条項)を持ち出しており、大村の憲法条文の読み方の浅い理解に関しても以前の論考で指摘済み(*2)であるのだが、大村は、そんな強弁・牽強付会をいまだに言い続けている。
現行憲法第21条は、第3章(国民の権利及び義務)の中の条文だ。
第3章は第10条から第40条があり、同章・第12条には「濫用禁止」「公共の福祉優先」の規定があり、第12条は第3章全体に掛かるものである。
そういう構造からは、第21条の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」にも一定の節度が求められるものである。
大村に関する以前の論考では、この指摘の事例として、ドイツ憲法(ドイツ基本法)での「第9条・結社の自由理念」と「同第2項の禁止されている結社=ナチス党は禁止」を紹介している。
論理的には第21条だけを持ってきての自己弁護は成り立たないもので、争点は、騒ぎの原因となっている展示物が第12条規定に反する存在なのか否かを含めての問題となっているものである。
ところが大村はいまだに第21条だけを持ち出して発言し続けている。
当方は、盛んに繰り返し「第21条」を口にする大村の姿に違和感を持ったのである。
そもそも現行憲法第21条の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」の理念規定は、条文で例示されている「集会」「結社」「言論」「出版」に見られる様に、各人の政治的主張。政治的活動を規制しないとの民主主義原則を保障する為の条文だ。
一方、今回の騒動の対象となっているのは、アート・芸術を自称する「作品」である。
「集会」「結社」「言論」「出版」等の各人の政治的主張。政治的活動は、大学でいえば「政治学部」とは「政経学部・政治学科」の世界であり、社会科学の世界の話である。
そこには、人類が築き上げてきた社会科学の論理性が存在している。
一方、今回騒動の対象は「アート・芸術」である。
「アート・芸術」或いは「芸能」は、「感性の世界」の話であり、客観的な基準が存在しない。
絵画、彫刻、オブジェ、楽曲、映像等々の各種作品に対する各人の評価は千差万別だ。
各人の感性に応じて「好き・嫌い」が言える世界であり、最終的には「これが正しい」とかを明確には言えない世界なのである。
大村は盛んに現行憲法第21条を持ち出してくるが、そういう差異があるのに、これについても言及しない。
以上が、疑問を持つに至る前の基本的事実認識である。
何か誤認があれば、ご指摘いただきたい。
この様な基本的事実認識を踏まえ、次に「アート・芸術の世界」をスタート地点としての思考経過。ポイントを紹介する。
「アート・芸術の世界」の話なので、最初の部分は感性に軸足がある記述となるので、その点は、予めご承知おき願いたい。
●<芸術性が欠落していることについて>
「あいちトリエンターレ」は芸術祭のはずなのだが、問題となっている展示物を、その政治的主張(実際は罵詈雑言・誹謗中傷だが)を取り除き、アートとして見た場合、当方の評価としては、作品の作り込み、造作に於いて、あれら「作品」は「やっつけ仕事」のレベルでありガラクタに等しいと考えている。
つまり、アート作品としては、作家としての最低限の努力がなされていないものだと評価している。アート作品の良し悪し以前の問題だと思う。
以前、ろくでなし子がかかわった騒動に関して論考した際に、その作品の良し悪しに関しては、当方の感性からは全然関心がない旨を述べた。(*3)
しかし、すくなくとも、ろくでなし子の「デコマン」はアート作家としての最低限の努力がなされており、「アート作品としての良し悪しをする対象」になっているレベルの造作がなされている。
その上で、当方としては、「デコマン」はダメだと受け止めている訳だ。
一方、あいちトリアンテーレの展示物は、自称「アート作品」なのだが、あれはアート作品になり得ていないと評価している。
勿論、作者が「これはアートだ」と思っていれば、それは作者にとってのアートなのであろうが、それを展示して皆に見せる行為をするのだったら、それを鑑賞した側は、鑑賞者の感性で色々と評価するものである。その結果が「ガラクタ」なだけである。
感性の世界での評価とは、こういうものである。
●<アート作品に込められた政治性に関する観点>
上記した津田「芸術:監督に関する以前の論考で明示した様に、芸術作品・アート作品には、政治性、政治的メッセージが込められていて構わないと考えている。
以前の論考では、ピカソのゲルニカ等の幾つかの絵画を例にその旨を述べている。
また、作品に込められた政治性・政治的メッセージが、当方信条とは真逆なものであっても、その内容だけで、その作品の芸術性を否定するものではない。
その政治的主張を取り除いて芸術性を評価するだけの感性は持ち合わせているつもりである。以前の論考では、共産主義の非人間性を危険視している当方であっても、音楽作品としてのワルシャワ労働歌を評価している事を述べているのは、そういう視点からである。
●<政治性・政治的メッセージの内容について>
上記した様に「政治性・政治的メッセージ」を込めた芸術作品の事例としてピカソのゲルニカを示した。以前の論考では、これ以外にピカソの「朝鮮虐殺」とゴヤの「プリンシペ・ピオの丘での銃殺」を例示している。
ゲルニカは、スペイン内戦でのゲルニカ(地名)に対する無差別爆撃がテーマだ。そこに描かれているのはアブストラクトなので様々な解釈が成り立つが、一般的には爆撃で殺された民衆などが描かれ、反戦がテーマである様に言われている。
ピカソの「朝鮮虐殺」は朝鮮戦争での軍による住民大量虐殺がテーマだ。被害にあったのは、朝鮮半島の黄海側の38度線を超えた「黄海南道」の信川郡の住民だと言う事は確かなのだが、加害者が誰なのかは諸説ある。北朝鮮側は「米軍(国連軍)による虐殺だ」としているが、北朝鮮軍によるもの、異なる思想の住民間によるものなど諸説ある。
この手の南北朝鮮が関係するものは政治的プロパガンダが発生しやすく事実が何だか分からないものである。例えば、英語版Wikiでは記載がある諸説が日本語版にはないとか、プロパガンダ臭がきつい。
何れにしろ、民衆が虐殺されたことを否定的に捉え、それへの怒り・悲しみが作品を生んだ情念であると推定される作品である。
ゴヤの「プリンシペ・ピオの丘での銃殺」は、1808年(19世紀最初期)の出来事を題材にしたものである。
ナポレオン・フランス軍がイギリス・ポルトガル軍と闘ったナポレオン戦争時に起こった、スペイン・マドリードでのマドリード市民の抵抗運動に対するナポレオン軍による処刑がテーマの作品である。
マスケット銃が主流の中、ライフル部隊の描いたイギリスのTVドラマ「炎の英雄・シャープ」は、この戦争を時代背景にしたものであり、これも無力な民衆が殺されることへの怒り・悲しみが作品を生んだ情念であると推定される作品である。
これら例示した作品は、芸術作品として優れているものだと考えている。
そして、これら作品のテーマは共通している。テーマは、現在に於いて「正義ではない」とされる「強力(ゲパルト)を持つ存在による民衆の虐殺・処刑行為」である。
たった3点だが、ここで例示した作品は、芸術性に優れ、かつ、そこに込められた政治性・政治的メッセージも共感を得られる内容だというものだ。
一方、ここでちょっと引っ掛かったのは「政治性が込められた芸術作品はOK」だとの当方の基本的認識を物差しにした場合、その政治的メッセージに関して、「それが世間一般で受け入れられるものであるか否か」という視点の存在だ。
この様に考えたのは、「芸術性に優れていても忌避される作品がある」という、もう一方の事実である。
今や、もうそんな事はないのだが、その昔、ワーグナーの作品はナチス・ヒットラーが愛好したことを理由に忌避されていた時代がある。
ちょっと調べてみたら、現在でもイスラエルではワーグナーが忌避されていて、公に演奏されることは許されていないらしい。
どうやら、芸術作品・アート作品の扱いは、その芸術性のみならず、それに付随すると看做される別の価値観との合同・合算で人々に評価されるものである事が一般的であると言って良いものとなる。
芸術作品・アート作品は、感性の世界の存在であり、鑑賞者等の受け取る側も、各人の感性で受け取るのである。その受け取り方も、ここで要素分解した様な芸術性と政治性を分けて各々を捉えることをする鑑賞者はむしろ少数で、総合的に受け取っての評価を行う方が一般的だと思う。
そうなると、件の「あいちトリエンナーレ」の問題の展示物は、芸術性とそこに込められた政治性・政治メッセージの両面での、総合的な受け取り方の評価の対象となるものであると結論付けられることになる。
つまり、作品に込められている政治性・政治メッセージは、評価・議論の対象であるということだ。
<長くなったので項を分けます>
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【文末脚注】
(*1):「芸術」監督・津田に関する以前の論考
2019/08/08投稿:
芸術性よりも偏向した政治性を優先した津田「芸術」監督
<本当は恐ろしい自称「リベラル」の本性・2019>
http://samrai308w.blog.fc2.com//blog-entry-1237.html
(*2):大村の憲法条文の読み方の浅い理解に関しても以前の論考で指摘済みである。
2019/08/10投稿:
大村愛知県知事の安易な理解「憲法21条違反」
http://samrai308w.blog.fc2.com//blog-entry-1238.html
【ご参考】
※ドイツ憲法の「結社の自由」を事例に「理念+制限」に関して論考したことがある。
2017/08/25投稿:
「ナチスはドイツ憲法で禁止」との慣用句
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-739.html
(*3):以前のろくでなし子がかかわった騒動に関しての論考
2015/11/07投稿:
【コラム】ぱよちん音頭
<本当は恐ろしい自称「リベラル」の本性
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-255.html
【ご参考】
※アーティスト・ろくでなし子が、ぱよちん音頭を面白がったら、一斉に攻撃をし始めたパヨク達の偏狭さと底意地の悪さが酷かったことからの論評2つ
↓
2015/11/13投稿:
【コラム】表現の自由を踏みにじり「レイシスト」と叫ぶ輩
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-262.html
2015/12/27投稿:
【コラム】多様性を認めない不寛容さが彼等の特徴
副題:「表現の自由」より、自らの党派性を優先する姿勢は、自己の価値観を他者に強要する価値一元論である。本当は恐ろしい自称「リベラル」の本性。
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-294.html
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