芸術性よりも偏向した政治性を優先した津田「芸術」監督
- 2019/08/08
- 22:44
芸術性よりも偏向した政治性を優先した津田「芸術」監督
<本当は恐ろしい自称「リベラル」の本性・2019>

副題:表現の自由・芸術・ヘイト行為・・・「芸術監督」が芸術性よりも、自分の偏向した政治性を優先するとの本末転倒。芸術を政治に従属させるやり方には虫唾が走る
小朝の奥さんだった泰葉が発した小朝への罵倒「金髪豚野郎」は、今やネット上では、津田大介が襲名している様だ。(笑)
その津田大介の言動は随分と浅く、不見識なものが多いと思っていたが、今回の愛知県での反日偏向が前面に出た騒動では、それが顕著に表れたものだと思う。
本件に関しては、既に産経新聞が論説(*1)しており、ちょっと異議ある点もあるが、ほぼ適切な指摘をしているので、それとは違う視点で少々述べておきたい。
産経の論説の最初には「芸術であると言い張れば「表現の自由」の名の下にヘイト(憎悪)行為が許されるのか」との一文がある。
これは的確な指摘である。とは言え、ここでは別の視点で考えたい。
今回提示する「別の視点」とは、「芸術(アート)って何?」との視点である。
実際のところ、当該、自称「アート」を見て、当方主観では「アート作品足り得てない生煮えのやっつけ仕事」に見えた。
当方は、作品を創作した人物が、自分が一生懸命創作した作品を「アートだ」と考えること自体を否定しない。それは創作者の主観であり、創作者の自由の範疇だからである。
創作者が「アートだ」と信じていれば、それは創作者側にとっての芸術作品=アートなのである。
そして、それを展示して、皆に見せる行為をするのだったら、それを鑑賞した側は、その作品に対して何を感じるのかは鑑賞者側の感性に基づくもので、鑑賞者の自由なのである。
そういう考え方をしているので、当方は、鑑賞者として「作品」が発する「何か」に対しての感想を持つのは当然であるとの立場がその基盤にある。
その上で、「「作品」が発する「何か」」と書いた様に「「何か」の軸足を何処に置くのか」との点を明示する必要があると思う。
結論的に言うと、当方が軸足を置いているのは、その作品が発する「芸術性」と対峙した時の自身の心が感じた「感動・嫌悪・ツマンネ」等の素直な感想だ。
「芸術性」とわざわざ書いたのは、以前にも指摘しているのだが、当方は、共産主義体制=唯一指導党・共産党による独裁は人間を不幸にするシステムあると結論しており、共産主義に対して論理的に嫌悪している。その一方で、共産主義楽曲「ワルシャワ労働歌」は楽曲として素晴らしい作品だと評価している。
「楽曲として」という点が「芸術性」の部分である。
この様な考え方・フィロソフィーを提示するのは今回が初めてではない。
以前の「ろくでなし子」に関する論考(*2)で、その事を述べている。
今回の愛知での「アート」に対して、最初に述べた「「アート作品足り得てない生煮えのやっつけ仕事」に見えた」との当方感想は、この「芸術性」に軸足を置いて、あれらを「芸実作品」として見た時の感想だ。
「「芸実性」に軸足を置き、作品のメッセージ性を脇に置くのは間違いだ」との薀蓄を述べる方もいるのだが、そうとは言えない。
当方は、クリスチャンではないので、キリスト教には帰依していない。聖書の記述の幾つかには共感しているものの、キリスト者ではない。
そういう立場の当方は、所謂「宗教画」と言われるキリスト教をテーマにした芸術作品のを、その芸術性の高さから高く評価しているものが多々ある。
具体的には、ダヴィンチの「最後の晩餐」、「岩窟の聖母」、「受胎告知」などである。同様ルネッサンスの巨匠であるミケランジェロのバチカンの壁画「最後の審判」や「死せるイエスを抱きかかえ悲しむ聖母マリアの彫刻「ピエタ」などは、非キリスト者が大半の日本人の多くが、その芸実性の高さから名作と評価している。
今回の愛知の自称「アート」に関しては、その政治的主張が問題となっているものなのだが、ここまで述べてきた様に「芸術性」に軸足を置く時には、そこに込められた「どの様な政治的主張」なのかは、取り敢えず、その論点としない事を御理解いただけたと思う。
アートに政治的主張なりが込められることは普通にあり、それを当方は否定しない。
典型例として多くの方々がご存じのピカソの「ゲルニカ」、「朝鮮虐殺」などがある。
作品名を忘れたので画像検索してら出てきたのが「プリンシペ・ピオの丘での銃殺」だった。作者はゴヤだった。
そもそも、アート作品とは、表現者が自己の心情を何かの作品として創作したものであり、表現の自由の観点からは「何かしらの制限を加えるべきではない」というのが、人類が集積した知恵である。
ここまで述べてきた事を基盤に、問題化した芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の作品(の一部。90余作品総てではない)を見た感想を述べると、それは「芸術性を脇に置いた芸術祭」となる。
いったい、どんな形容矛盾だよ、と感じる。
「芸術監督」とのポジションに就いた津田大介が、作品の芸術性よりも、自分の偏向した政治性を優先して展示作品を選んで開催した「芸術祭」であると看過しているのである。
「表現の不自由」なる大層なテーマを掲げながら、津田が選んだのは、反日・反天皇モノであり、所謂「保守的・愛国的」な作品は観られない。
「芸術(アート)って何?」との視点で、「あいちトリエンナーレ2019」の騒動を見ると、こういう結論に至ったのである。
「金髪豚野郎」を小朝から襲名した津田大介の、この様な「芸術を政治に従属させるやり方」には虫唾が走るのである。
今回は以上である。
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【文末脚注】
(*1):産経新聞の論説
産経新聞HP 2019.8.7 05:00
見出し:◆【主張】愛知の企画展中止 ヘイトは「表現の自由」か
https://www.sankei.com/column/news/190807/clm1908070002-n1.html
○芸術であると言い張れば「表現の自由」の名の下にヘイト(憎悪)行為が許されるのか。
○そうではあるまい。
○だから多くの人が強い違和感や疑問を抱き、批判したのではないか。憲法は「表現の自由」をうたうとともに、その濫用(らんよう)をいさめている。
○愛知県などが支援する国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が開幕から3日で中止された。直接の理由は展示内容に対する脅迫だとされる。
○暴力や脅迫が決して許されないのは当然である。
○一方で、企画展の在り方には大きな問題があった。「日本国の象徴であり日本国民の統合」である天皇や日本人へのヘイト行為としかいえない展示が多くあった。
○バーナーで昭和天皇の写真を燃え上がらせる映像を展示した。昭和天皇とみられる人物の顔が剥落した銅版画の題は「焼かれるべき絵」で、作品解説には「戦争責任を天皇という特定の人物だけでなく、日本人一般に広げる意味合いが生まれる」とあった。
○「慰安婦像」として知られる少女像も展示され、作品説明の英文に「Sexual Slavery」(性奴隷制)とあった。史実をねじ曲げた表現である。
○同芸術祭実行委員会の会長代行を務める河村たかし名古屋市長は「日本国民の心を踏みにじる」として像の展示中止を求めた。
○これに対して実行委会長の大村秀章愛知県知事は、河村氏の要請を「表現の自由を保障した憲法第21条に違反する疑いが極めて濃厚」と非難した。
○これはおかしい。憲法第12条は国民に「表現の自由」などの憲法上の権利を濫用してはならないとし、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と記している。今回の展示のようなヘイト行為が「表現の自由」の範囲内に収まるとは、到底、理解しがたい。大村氏は開催を反省し、謝罪すべきだろう。県や名古屋市、文化庁の公金支出は論外である。
○芸術祭の津田大介芸術監督は表現の自由を議論する場としたかったと語ったが、世間を騒がせ、対立をあおる「炎上商法」のようにしかみえない。
○左右どちらの陣営であれ、ヘイト行為は「表現の自由」に含まれず、許されない。当然の常識を弁(わきま)えるべきである。
<引用終わり>
(*2):以前の「ろくでなし子」に関する論考
2015/11/07投稿:
【コラム】ぱよちん音頭
<本当は恐ろしい自称「リベラル」の本性
http://samrai308w.blog.fc2.com/blog-entry-255.html
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副題:表現の自由・芸術・ヘイト行為・・・「芸術監督」が芸術性よりも、自分の偏向した政治性を優先するとの本末転倒。芸術を政治に従属させるやり方には虫唾が走る
小朝の奥さんだった泰葉が発した小朝への罵倒「金髪豚野郎」は、今やネット上では、津田大介が襲名している様だ。(笑)
その津田大介の言動は随分と浅く、不見識なものが多いと思っていたが、今回の愛知県での反日偏向が前面に出た騒動では、それが顕著に表れたものだと思う。
本件に関しては、既に産経新聞が論説(*1)しており、ちょっと異議ある点もあるが、ほぼ適切な指摘をしているので、それとは違う視点で少々述べておきたい。
産経の論説の最初には「芸術であると言い張れば「表現の自由」の名の下にヘイト(憎悪)行為が許されるのか」との一文がある。
これは的確な指摘である。とは言え、ここでは別の視点で考えたい。
今回提示する「別の視点」とは、「芸術(アート)って何?」との視点である。
実際のところ、当該、自称「アート」を見て、当方主観では「アート作品足り得てない生煮えのやっつけ仕事」に見えた。
当方は、作品を創作した人物が、自分が一生懸命創作した作品を「アートだ」と考えること自体を否定しない。それは創作者の主観であり、創作者の自由の範疇だからである。
創作者が「アートだ」と信じていれば、それは創作者側にとっての芸術作品=アートなのである。
そして、それを展示して、皆に見せる行為をするのだったら、それを鑑賞した側は、その作品に対して何を感じるのかは鑑賞者側の感性に基づくもので、鑑賞者の自由なのである。
そういう考え方をしているので、当方は、鑑賞者として「作品」が発する「何か」に対しての感想を持つのは当然であるとの立場がその基盤にある。
その上で、「「作品」が発する「何か」」と書いた様に「「何か」の軸足を何処に置くのか」との点を明示する必要があると思う。
結論的に言うと、当方が軸足を置いているのは、その作品が発する「芸術性」と対峙した時の自身の心が感じた「感動・嫌悪・ツマンネ」等の素直な感想だ。
「芸術性」とわざわざ書いたのは、以前にも指摘しているのだが、当方は、共産主義体制=唯一指導党・共産党による独裁は人間を不幸にするシステムあると結論しており、共産主義に対して論理的に嫌悪している。その一方で、共産主義楽曲「ワルシャワ労働歌」は楽曲として素晴らしい作品だと評価している。
「楽曲として」という点が「芸術性」の部分である。
この様な考え方・フィロソフィーを提示するのは今回が初めてではない。
以前の「ろくでなし子」に関する論考(*2)で、その事を述べている。
今回の愛知での「アート」に対して、最初に述べた「「アート作品足り得てない生煮えのやっつけ仕事」に見えた」との当方感想は、この「芸術性」に軸足を置いて、あれらを「芸実作品」として見た時の感想だ。
「「芸実性」に軸足を置き、作品のメッセージ性を脇に置くのは間違いだ」との薀蓄を述べる方もいるのだが、そうとは言えない。
当方は、クリスチャンではないので、キリスト教には帰依していない。聖書の記述の幾つかには共感しているものの、キリスト者ではない。
そういう立場の当方は、所謂「宗教画」と言われるキリスト教をテーマにした芸術作品のを、その芸術性の高さから高く評価しているものが多々ある。
具体的には、ダヴィンチの「最後の晩餐」、「岩窟の聖母」、「受胎告知」などである。同様ルネッサンスの巨匠であるミケランジェロのバチカンの壁画「最後の審判」や「死せるイエスを抱きかかえ悲しむ聖母マリアの彫刻「ピエタ」などは、非キリスト者が大半の日本人の多くが、その芸実性の高さから名作と評価している。
今回の愛知の自称「アート」に関しては、その政治的主張が問題となっているものなのだが、ここまで述べてきた様に「芸術性」に軸足を置く時には、そこに込められた「どの様な政治的主張」なのかは、取り敢えず、その論点としない事を御理解いただけたと思う。
アートに政治的主張なりが込められることは普通にあり、それを当方は否定しない。
典型例として多くの方々がご存じのピカソの「ゲルニカ」、「朝鮮虐殺」などがある。
作品名を忘れたので画像検索してら出てきたのが「プリンシペ・ピオの丘での銃殺」だった。作者はゴヤだった。
そもそも、アート作品とは、表現者が自己の心情を何かの作品として創作したものであり、表現の自由の観点からは「何かしらの制限を加えるべきではない」というのが、人類が集積した知恵である。
ここまで述べてきた事を基盤に、問題化した芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の作品(の一部。90余作品総てではない)を見た感想を述べると、それは「芸術性を脇に置いた芸術祭」となる。
いったい、どんな形容矛盾だよ、と感じる。
「芸術監督」とのポジションに就いた津田大介が、作品の芸術性よりも、自分の偏向した政治性を優先して展示作品を選んで開催した「芸術祭」であると看過しているのである。
「表現の不自由」なる大層なテーマを掲げながら、津田が選んだのは、反日・反天皇モノであり、所謂「保守的・愛国的」な作品は観られない。
「芸術(アート)って何?」との視点で、「あいちトリエンナーレ2019」の騒動を見ると、こういう結論に至ったのである。
「金髪豚野郎」を小朝から襲名した津田大介の、この様な「芸術を政治に従属させるやり方」には虫唾が走るのである。
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【文末脚注】
(*1):産経新聞の論説
産経新聞HP 2019.8.7 05:00
見出し:◆【主張】愛知の企画展中止 ヘイトは「表現の自由」か
https://www.sankei.com/column/news/190807/clm1908070002-n1.html
○芸術であると言い張れば「表現の自由」の名の下にヘイト(憎悪)行為が許されるのか。
○そうではあるまい。
○だから多くの人が強い違和感や疑問を抱き、批判したのではないか。憲法は「表現の自由」をうたうとともに、その濫用(らんよう)をいさめている。
○愛知県などが支援する国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が開幕から3日で中止された。直接の理由は展示内容に対する脅迫だとされる。
○暴力や脅迫が決して許されないのは当然である。
○一方で、企画展の在り方には大きな問題があった。「日本国の象徴であり日本国民の統合」である天皇や日本人へのヘイト行為としかいえない展示が多くあった。
○バーナーで昭和天皇の写真を燃え上がらせる映像を展示した。昭和天皇とみられる人物の顔が剥落した銅版画の題は「焼かれるべき絵」で、作品解説には「戦争責任を天皇という特定の人物だけでなく、日本人一般に広げる意味合いが生まれる」とあった。
○「慰安婦像」として知られる少女像も展示され、作品説明の英文に「Sexual Slavery」(性奴隷制)とあった。史実をねじ曲げた表現である。
○同芸術祭実行委員会の会長代行を務める河村たかし名古屋市長は「日本国民の心を踏みにじる」として像の展示中止を求めた。
○これに対して実行委会長の大村秀章愛知県知事は、河村氏の要請を「表現の自由を保障した憲法第21条に違反する疑いが極めて濃厚」と非難した。
○これはおかしい。憲法第12条は国民に「表現の自由」などの憲法上の権利を濫用してはならないとし、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と記している。今回の展示のようなヘイト行為が「表現の自由」の範囲内に収まるとは、到底、理解しがたい。大村氏は開催を反省し、謝罪すべきだろう。県や名古屋市、文化庁の公金支出は論外である。
○芸術祭の津田大介芸術監督は表現の自由を議論する場としたかったと語ったが、世間を騒がせ、対立をあおる「炎上商法」のようにしかみえない。
○左右どちらの陣営であれ、ヘイト行為は「表現の自由」に含まれず、許されない。当然の常識を弁(わきま)えるべきである。
<引用終わり>
(*2):以前の「ろくでなし子」に関する論考
2015/11/07投稿:
【コラム】ぱよちん音頭
<本当は恐ろしい自称「リベラル」の本性
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